2022年10月6日(木)

近現代史ブックレビュー

2022年9月18日

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筒井清忠 (つつい・きよただ)

帝京大学文学部長

1948年大分市生まれ。帝京大学文学部長・大学院文学研究科長。東京財団政策研究所上席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店)、『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)など著書多数。

 近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
昭和の参謀
前田啓介
講談社 現代新書 1430円(税込)

 昭和を代表する陸軍の参謀7人を取り扱った著作である。いずれも興味深い内容であるが、評者として最も印象深かったのは第5章の池田純久であった。池田は昭和前期陸軍派閥抗争の1つの焦点である統制派と皇道派の対立において、統制派を代表する人物であったにもかかわらず研究がほとんどないからである。

 この統制派と皇道派の対立において特異なことは、皇道派の存在は明白だが、統制派の存在は当事者が否定することが多いことである。このため誤って存在しないとする研究者すらかつては存在した。しかし、池田は自ら自分が中心であったとして存在を認め、研究を大きく前進させたのであった。

 池田は1894年、大分県中津市に生まれた。中津市生まれの先輩に梅津美治郎陸軍参謀総長、陸大同期の秋永月三内閣総合計画局長官がいる。池田は秋永の後の内閣総合計画局長官になる。彼らの先輩の大分県出身者に満州事変時の南次郎陸軍大臣・金谷範三参謀総長、終戦時の阿南惟幾陸軍大臣がいる。ほかにも昭和前期の陸軍枢要部には大分県出身者が多く、陸軍大分閥ということが言われる所以である。

 陸士・陸大を経て昭和初期に東大経済学部派遣学生となっている。マルクス・エンゲルスを学び『資本論』も読んだ。1934年、陸軍省軍務局員として『国防の本義とその強化の提唱』という著名なパンフレットを書いたという。この頃、永田鉄山陸軍省軍務局長を中心とした幕僚グループの研究会の中心メンバーだったのである。

 折から、陸軍ではこの永田軍務局長を中心とした幕僚グループ統制派と、真崎甚三郎、荒木貞夫ら将官たちと磯部浅一、村中孝次、栗原安秀ら青年将校からなる皇道派とが激しく対立していた。すでに述べたようにこの陸軍派閥抗争の焦点たる永田をいただいた研究会=統制派の中心人物が池田だったのである。

 それは、陸軍士官学校事件、真崎教育総監罷免事件、相澤中佐事件を経て二・二六事件の失敗による皇道派の壊滅に至る。

戦争中から唱えた
日中戦争不拡大

 さて、問題は、二・二六事件後、皇道派が壊滅したため、事件後の陸軍は統制派が支配し、さらにそのため統制派によって37年の盧溝橋事件以降の日中戦争の拡大が起こったというふうに書かれることがあることである。

 しかし、これは明白な間違いであり、永田軍務局長を中心とした統制派は二・二六事件前の相澤中佐事件による永田の横死で核を失っており、二・二六事件後は、一方では(派閥に無縁の)梅津次官による「粛軍」の推進と、他方では石原莞爾を中心とした満州派(石原派)の急速な台頭(と没落)が見られ、統制派支配など存在しないのである。

 これが間違いであることを示す端的な事例として、一つには当時中国現地にいて盧溝橋事件・日中戦争の拡大に力を貸したのは皇道派の牟田口廉也であり、元来統制派の中心人物池田は盧溝橋事件以降の日中戦争の拡大に強硬に反対していたことが挙げられる。ただ、この池田のケースについては自身が戦後書いたものにそうした記述があるだけで、実は他の資料によって確かめられたものではなかった。

 しかし、今回著者は初めて池田の遺族に会い、またさまざまな資料を入手してこのことを正確に確かめたのである。具体的には日中戦争中に書かれた以下のような文章を見つけている。

 37年の雑誌『財政』11月号には、中国の民衆の「民族意識の発達しつつあること」を見逃してはならない、これを「裏切る如き工作を日本が施すことは日支の永遠に提携する所以でない」と警告しており、また『キング』38年4月1日号には、「そんな風に認識不足だから、とにかく支那人を軽蔑し、商品にしても粗悪なものを送ったりして、屡々醜体を暴露するのです」と書いている。

 さらに、39年の『染織之流行』7月号には、「盧溝橋の銃声を発端として日支相見えたが支那と戦争する考えはなく飽まで不拡大方針で臨んだ」「全く無計画の下に今次の支那事変へと発展した」「戦後の支那を如何にするかという問題はおろか聖戦の目的すらハッキリしなかった」「従来力のみで事を解決せんとしたことが遂いに今事変の如く全面戦争となった悲しむべき事実を反省し将来再びこの愚を繰り替えさない様に努めねばならぬ。」

 このように、池田は戦争中から日中戦争不拡大を主張していたことがはっきりとしたわけである。「聖戦の目的すらハッキリしなかった」というのは当時としてはかなり思い切った発言といえよう。

 (一時期とはいえ)統制派を自認までしていた池田が、戦後に書かれたものではなく、日中戦争中に書かれたものから日中戦争不拡大論であったことをはっきりとさせたことは非常に貴重な発見である。 

 近衛文麿は戦争中に、戦争拡大における陸軍の大分閥の存在を問題視し、その中心を池田と見ていたが、これは大きな認識不足であったことが今回の著者の研究によってハッキリしたと指摘できよう。

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