2024年11月25日(月)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年3月14日

 国民的熱狂は「大正デモクラシー」期の軍人蔑視の社会風潮(連載第4回参照)も吹き飛ばすことになる。「きのうまで、町へ出ると人殺し商売と呼ばれ、肩をすぼめて歩いた軍人たちが、大手を振って舞台へ出てきたのである」。ある将軍は感慨を込めて書いている。「これを以て今日迄の軍部受難時代は一掃され、皇軍飛躍時代の第一歩は雄々しく踏み出されたのである」。

 戦争は軍人にとって解放だった。一般に軍人は死に対する心理的ハードルが低い。中国軍相手の低危険度の戦いならば、それは国民の賞賛と勲章を得て、平時には望みもできなかった高位高官へと飛躍するチャンスですらある。

 実際、当該期の将校の階級毎の待命率分布(待命とは所属先がなく命令を待っている状態。多くの場合予備役編入の前触れとなる)を調査した広田照幸氏(日本大学教授)の研究によれば、満州事変を契機として、大尉で待命となる将校の割合が大きく減少し、逆に少佐~大佐で待命となる者の割合は増えている。特に中佐で待命となる者の割合の増加が著しい。つまり満州事変以降はより高い階級まで昇進できる期待値が高まっていたことが分かる。ちなみに大尉と中佐では俸給に倍くらいの差があり、経済的にも大きな違いがあった。

 軍人の社会的威信の増大や経済的待遇改善は各種軍学校の志願者数にも反映される。1921(大正10)年にはわずか1000人にまで落ち込んでいた陸軍士官学校の志願者数は、満州事変以降は一気に増大し、1934(昭和9)年には1万人を突破している。

満州事変という「一時的」な事象より
日本との友好関係を優先した列強諸国

 国際情勢も関東軍に味方した。まず中国政府は混乱状態にあった。事変当時、張学良は国民政府の旗下に参じていたといっても、実際には強い独立傾向を維持し、満州は事実上の地方独立政権であった。

 国民政府も動揺していた。蔣介石(南京国民政府)の施策に反対する国民党の有力指導者(汪兆銘など)は蔣介石から離反し、臨時政府(広州国民政府)を樹立して対抗していた。つまり中国政府は事実上、3つに分裂していた。

 関東軍の軍事行動に対する判断ミスもあった。蔣介石と張学良は関東軍に対して無抵抗主義を採用した。彼らは関東軍の軍事行動が全満州の奪取を意図したものだとは考えていなかった。したがって下手に軍事的に抵抗することで事態が余計に悪化することを恐れた。

 武力抵抗を放棄した蔣介石が頼ったのは国際社会であった。中国は国際連盟に対して関東軍の行動を侵略行為として提訴した。

 しかしその国際社会は中国に対して冷淡だった。当初、欧米列強の対応は自制的だった。彼らの脳裏には、これまで「協調外交」を展開し、今も外務大臣である幣原喜重郎に対する信頼があった。そのため過剰な日本非難を控えようとした。

 戦線が拡大し幣原に対する信頼が裏切られた後も、欧米列強の日本に対する態度は迫力を欠いた。英国やフランスは同じ植民地帝国として日本に同情的な面すらあった。米国の態度は英仏に比べればずっと厳しいものだったが、しかし道義的非難以外の対抗措置を取らなかった。欧米列強は満州事変という「一時的」な事象のために、今後もずっと続くであろう日本との友好関係を犠牲にすることを躊躇した。


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