2024年7月16日(火)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年3月14日

 思想言論の自由も完全に失われたわけではなかった。左翼思想に対する締め付けは徐々に強まっていたが、まだマルクス主義の論文は発表できたし、書籍も購入できた。

 政治学者の中村隆英によれば「圧力を加えられながらも、思想が学問の形でなお生きのびることがこのころまでは可能だった」。換言すれば、国体批判や過度な軍部批判でなければ、思想言論の自由はかなりの程度容認されていた。

敵を軽視し、国際社会を軽視し、国内への影響を軽視した日本

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した当時は、上述のような情勢であった。

 盧溝橋事件は夜間演習中の支那駐屯軍(在外公館や居留民保護のために駐屯していた日本軍部隊)に十数発の銃弾が撃ち込まれ、これを中国軍の攻撃と見なした日本側が反撃したことに端を発する。支那駐屯軍の強硬態度には、関東軍への対抗意識があったといわれる。

 一報を受けた参謀本部は事件への対応をめぐって2つに分裂することになる。一方は満州事変の功績により作戦部長の要職に抜擢されていた石原莞爾を中心とする「不拡大派」である。石原は全面戦争に発展することを恐れて援軍の派遣には消極的だった。

 もう一方は石原の直属の部下である作戦課長の武藤章を中心とする「拡大一撃派」である。武藤はむしろ大規模な増援を行って中国軍に一大打撃を与えることで早期に紛争を解決し、将来的な禍根も除去できると考えた。

 両派は激しく対立するが、総じて「拡大一撃派」が優勢であった。石原は屈服し、ついに増援部隊派遣に同意する。

 7月11日、陸軍の増派要請を受け、近衛文麿内閣は五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相が出席)と臨時閣議を開催した。近衛内閣は組閣からまだ1カ月で、国民的輿望を担って成立した内閣であり、政治的成果を欲していた。近衛内閣は増派計画を承認し、大規模増援部隊の派遣を決定する。

 さらに近衛内閣は、武力衝突を単なる「事件」ではなく満州事変と並ぶ「北支事変」と命名し、「全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし〔中略〕政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支出兵に関し政府として執るへき所要の措置をなす事に決せり」と声明した。大上段に構えた高圧的な声明だが、中国に対する威圧と国内向けアピールの性格が濃厚であった。換言すれば、大戦争をする覚悟がなかったからこそできた声明だともいえよう。

 支那駐屯軍、参謀本部、内閣の行動の背景には、戦争という行為に対する明らかな驕慢さが見え隠れする。誰もが蔣介石の抗戦意欲を軽視していた。中国軍の実力を軽視していた。国際社会の反応を軽視していた。戦争が国内社会と経済に及ぼす影響を軽視していた。

 鎧袖一触で中国軍を圧倒し、世界が騒ぎ出す頃には紛争は日本の華々しい勝利で幕を閉じているだろう。内閣と軍部は国民の賞賛を受け、その歴史的偉業を国史に刻むことになるだろう。甘美で軽薄な予想が軍人と為政者の頭を支配していた。


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