米国から日本社会を見ていて気になるのは、日系人、特に日系アメリカ人の受け入れ方の問題だ。例えば、韓国社会が韓国系アメリカ人を呼び寄せてビジネスの国際化を進めたり、ベトナム社会が一旦は難民として国外に移動した人材やその子孫を本国で歓迎したりする姿と比較すると、日本社会と日系社会には距離感があったのは事実だ。
例えば、筆者が昔一緒に仕事をした日系人の会計士は大変に有能な人物だったが、「どうも日本の会社は苦手で」と言っていた。聞けば「イヤな思いをたくさんした」というのである。その会計士は最終的に「自分は普通の米国人として見られたい」といって活躍の場を欧州連合(EU)に移してしまい、筆者はそれを聞いて、何となく淋しい思いをしたものだ。
名前から見える距離感
心理的なカベを作っている背景には名前の問題もある。例えば、日本のメディアでは「日系人」の名前は必ずカタカナで表記されるのが普通である。
山田さんであっても、わざわざ「ヤマダ」さんと書かなくてはいけないらしいのだが、これはどうしてなのか、色々調べてみると、どうやら国籍で区別しているらしい。日本国籍を持っていれば山田さんは「山田さん」で、アメリカ市民権を取ると「山田」であっても「ヤマダさん」になる、要するにそういうことだ。
例えば、フィギュアスケートの往年の名選手クリスティ・ヤマグチ氏について「山口」と表記したものは見たことがない。勿論、メディアの立場からすれば言い分もあるようだ。
日系人のリーガル・ネームはローマ字綴りなので漢字の綴りは正式でないし、仮に日系の三世四世の場合で、自分の姓名の漢字表記が「ない」人もいるだろうから仕方がないというのである。だが、日系人はあくまで日系であり、その日本で、日本語で表記する場合はヤマグチではなく「山口」のはずだ。生まれた国の方で国籍が外国だからカタカナにするというのだから奇妙な話である。
その他にも、日本の高校などで、日系人の髪の毛の色が薄いと「地毛証明書」を書かされたり、最悪の場合は黒く染めさせられるという問題もあった。ただし、顔立ちがヨーロッパ的だったりすると免除されるという人種差別的な対応もあり、本人の落胆を思うと胸が痛む。