2024年4月17日(水)

スポーツ名著から読む現代史

2023年3月29日

病魔との闘い

 1軍と2軍の往復が続いた2年目の5月、原因不明の病魔が栗山を襲った。<その日はイースタンリーグのゲームがあり、ゲームは最終回を迎えていました。僕はセンターの守備位置につき、外野手同士のキャッチボールをしていると、いきなり目の前がグルグルと回り始めたのです。ボールが二重にも三重にも見えて、足元が左右にグラグラと揺れる。すぐに吐き気にも見舞われました。>(『栗山魂』115頁)

 異変はその後も予告なしに栗山を襲った。最初は週に1度ほどだったが、やがて頻度が高まっていった。

 シーズン終了後、大学病院を受診した。診断は「メニエール病」という、原因不明の病気だった。2度の長期入院を経て、症状は軽くなったものの7年間の現役期間中、メニエール病が完治することはなかった。

 病気の不安と闘いながらではあったが、スイッチヒッターとして定着し、外野守備も俊足を生かして存在感を高めた栗山は、年ごとに1軍の出場機会を増やし、入団6年目の1989年には125試合に出場、犠打はチーム最多の37をマーク、初めてのゴールデングラブ賞を受賞した。

 プロ野球選手として、これから絶頂期を迎えようとしていた7年目、またも不運が栗山を襲った。何かと栗山に目をかけてくれた関根潤三監督に代わり、野村克也氏が新監督に就任した。

 野村は「アットホームでぬるま湯体質につかっていた」チームの体質を根底から変革するため、大幅なメンバーの入れ替えを図った。野村の目に、病気治療のため春季キャンプの参加が遅れた栗山は「旧体制」と映ったのか、急激に出場機会が減った。

名将・野村とは異なる考え方

 栗山は、7年目のシーズン限りで引退を決断した。そのことは親しいトレーナーにしか伝えていなかった。

 現役最後となった試合は10月10日の横浜大洋戦(横浜スタジアム)。九回1死後、監督から「次の打者の代打で行くぞ」と指示され、準備をしていたが、前の打者が内野ゴロ併殺打でゲームセット。栗山の「現役最後の打席」は消滅した。

『監督の器』(野村克也著、イースト新書)

 野村監督と栗山の相性は良くなかったようだ。余談だが、野村は後に日本ハムの監督に就任した栗山について、著書でこんな酷評をしている。

 <最近はどういう基準でプロ野球監督を選んでいるのだろうと首をかしげたくなることが多々ある。北海道日本ハムは昨年、評論家の栗山英樹を監督に迎えた。私は栗山の監督就任の話を聞いた時、正直言って「えっ、栗山で大丈夫か?」と思った。彼は監督どころかコーチの経験すらない><彼は尊敬する監督として、長嶋茂雄や戦後の知将、三原脩さんの名前を挙げていた。私の影響はないと言いたかったのだろう>(『監督の器』2013年イースト新書)

 では栗山は「監督」という仕事について、どう考えていたのだろうか。日本ハムの監督に就任して4年が過ぎた2015年に上梓した『未徹在』(KKベストセラーズ)の中で「「監督の役割」について考察している。

『未徹在』(栗山英樹著、KKベストセラーズ)

 <監督は偉いという間違った認識と同様、もうひとつ誤解されていることがある。それは監督が指導者であるというものだ。大学以下の若い世代のアマチュア野球であれば、監督が指導者であるケースは多いと思う。だが、プロ野球は、そもそもアマチュアでやっていたトップレベルの選手たちが集まってくる世界であり、彼らを技術的に指導しようと思えば、もっとカテゴリーを細分化したエキスパートが求められる>と指摘したうえで、芸能プロダクションのマネジャーのように、個々の選手について「どのように努力させたら伸びるのか」「どのように起用したら輝くのか」を考えているという。(『未徹在』58頁)

 そのために必要なのは、選手を信じることだ。今回のWBCでも、不振に苦しんだ昨年の三冠王、村上宗隆を起用し続け、最後の最後に本来の力を発揮させた。マネジャーとして選手の力を信頼し、結果に結びつけた実例と言える。


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