現場を訪れなくても書ける小説家の力量
矢野さんには、執筆中の再発見もあった。
例えば中津市の耶馬溪の「青の洞門」。僧禅海が武士の時代に主人を殺して逃亡、主人の息子が禅海の志に共鳴して共に掘削を遂げたとされる。菊池寛の小説『恩讐の彼方に』で広まった。
だが矢野さんの調査では、菊池は耶馬溪も青の洞門も事前に訪れていなかったのだ。
「全然取材せずに書いているんです。なのに素晴らしいストーリー展開と説得力。小説家の力量というものを痛感されられました」
再発見にはオマケもあった。隧道の掘削は2人だけでなく、地元の石工・大工らがこぞって協力したこと。掘削後、禅海は人や馬から通行料を徴収、かなりの大金を貯えたこと……。
「知りたくなかった話もあります(笑)」
「女性文学者のエピソードでは、柳原白蓮と江口章子の項目が鮮烈でした。2人とも美しい歌人ですが、まるで対照的な人生ですね」
大正三美人の一人、白蓮は炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻だった。別府の赤銅御殿に九州一の文学サロンを作り、倉田百三、吉井勇、菊池寛、高浜虚子らと華やかな親交を結んだ。
だが、7歳年下の宮崎龍介と出会い、出奔。新聞に伊藤への絶縁状を掲載して世間を騒がせ、以後宮崎と生涯を添い遂げた。
一方の江口は、北原白秋の2番目の妻。白秋の創作活動を支えて約4年間暮らしたが、離婚後は失意から男出入りが激しくなり、最後は故郷・豊後高田市の実家の座敷牢で、汚物にまみれて死亡した。享年58。
「章子は、最初の結婚相手の弁護士が異常性愛者で、生涯トラウマに苦しみました。才能はあったのに、悲しい人生です」