チーム名は『AACD(障害児童サポート協会の略称)』。きっかけは障害者センターで水泳などのスポーツをしていた子たちに声が掛かったことだ。だが、児童といっても実際に集まった選手たちは20歳から30歳代も含まれていた。
これがアンプティサッカーチーム同士の初の対外試合となった。対戦相手は全て経験者ばかり。エンヒッキは出場チーム中一番若い選手であり、チームも出来たばかりなので力の差は歴然としていた。
緊張のあまり周りは見えなかったが、負けん気の強い性格故勝ちたい一心でボールに絡んだ。結果、チームとしては大敗を重ねたものの、個人的には『新人賞』を獲得した。
「全国から12チームが参加していました。こんなにたくさんの人が集まるのかと驚きましたし、こんな世界があったのか、ここに自分も出られるのかと感動しました。僕のチームは一番弱かったのですが、『いつか優勝してやる』『この世界でトップを取ってやる』と思いました」
「その大会にはブラジル代表選手も出ていたので、僕も頑張ればいつか代表になれるんじゃないかと思って、真剣にこの競技をやろうと心に決めたのです。それからはサッカーの楽しさの質が高まっていきました」
大会後、『AACD』でそのまま競技者として残る者はいなかった。エンヒッキはまた一人になってしまい健常者に交じって練習をする日々が続いた。けれど、ブラジル代表選手のプレーを目の当たりにし、また代表選手たちからは「しっかり練習すればなれるよ」と言葉を掛けてもらったため、アンプティサッカーとしての練習環境はなかったものの、目指すべきものにブレはなかった。
いつしか健常者に交じってもプレーに差を感じなくなるどころか、健常者よりも目立つようになった。エンヒッキはプレーヤーとしての成長を実感していった。
以後、毎年異なるチームから声を掛けられ、その都度違うチームで大会に出場した。
日本で味わった挫折感をバネに
「17歳の時にサントスにチームが出来たので、毎週練習に参加出来るようになりました。そこからは切断者同士でやれることになってサッカーがより楽しくなったのですが、その頃に一度日本に来ているのです。沖縄に叔父と叔母がいて、来てみないかと誘われたからです」
エンヒッキは小さい頃から日本が好きで、いつか住みたいと思っていた憧れの国だったそうだ。「技術力が高くて、何でも揃っていて、安全だから」という理由からだった。