2024年12月26日(木)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2013年7月30日

 しかし、漢字が読めない。日本語がわからないというコミュニケーションの壁にぶつかって挫折感を味わった。

 「日本のことを何も知らずに、ただ行きたいじゃだめなんです。深い考えもなくて甘かった。学校にも通いましたが2~3カ月くらいでブラジルに帰りました」

18歳のとき、ブラジル代表に選出される

 その挫折もまた競技者としての転機に繋がった。帰国後、再びアンプティサッカーを始めたところ18歳でブラジル代表に選ばれたのである。夢のようだった。だが、召集された約1カ月間の合宿では、「生まれて初めてこんなに苦しい練習をしたというくらい練習しました。つらくて、つらくて、本当に自分はここにいるべき人間なのだろうか」と苦しんだ。その苦しみ抜いた合宿を経てトルコで開催されたワールドカップ(2007年)に出場した。結果は3位決定戦で地元トルコに競り負け4位に終わった。

 「全選手の中から代表には15人しか選ばれません。試合前にブラジル国歌が流れたときは涙が流れました。今でも最高の思い出です。やっとたどり着いたステージでした。試合はベンチスタートでしたが、国内の試合とは違って、戦争みたいな感じがしました。ここでの経験は日本に来て日本代表としての今に活かされています」

再び日本へ 
「楽しいことを新しく作ろう」

 「僕の目標とする人は、マリオ・メロという選手です。得点王の経験もあるし優勝経験もあります。毎年ブラジル選手権ではマリオ選手がMVPを取っています。とても仲が良いのですが、いつか僕もマリオ選手みたいになりたいと思っています」

 初めて代表に選ばれたとき、緊張のあまり萎縮していたエンヒッキに喝を入れたのもマリオ・メロだった。普段は温和な彼もひとたびブラジル代表戦となれば人が変わった。憧れであり、一番頼りになる人が一番怖い存在だった。

 「彼にとって僕は息子みたいな感じだったと思います。普段は優しいんですが国際試合は別なんです。選ばれたら、初めてだとか年齢が若かいとかには関係なく、ブラジル代表としての期待に応えなければいけないんです。きっとマリオはそれを言いたかったんだと思います。でも僕はこの大会のあとに日本へ行くことになりました」

 「ブラジル銀行が障害者を募集しているけど、日本に来てみないか」と日本に住む従兄からメールが届いた。


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