2024年5月4日(土)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2013年7月30日

 前回は挫折したけれど、その後ブラジル代表の経験によって、努力次第で夢はかなうことも実感した。その自信がさらなる夢の実現に向けての後押しとなり、高校を卒業したタイミングでブラジル銀行に就職。ビジネスマンとして東京の生活が始まった。

 「今回は仕事をするために行くんだという明確な意思がありました。ブラジル代表のことだけは残念に思われましたが、僕たちはサッカーだけで生活はできませんから、仕事を第一に考えました。サッカーが出来なくなるわけでもありませんし、ブラジルアンプティサッカー協会からは「日本でも広めるように」と言われていたので、自分が伝えるんだという気持ちで日本に来ました。レベルの違いは気になりません。楽しいことを新しく作ろうと気持ちを切り替えました。前を向けば楽しいことがいっぱいあると思ったんです」

 その後、同じブラジル銀行に勤める杉野正幸に出会いアンプティサッカー協会の設立や日本代表監督を要請した。

 エンヒッキが望んだ「楽しいこと」は、義肢装具士の呼びかけにより、日本初のアンプティサッカークラブFCガサルスの立ち上げという形になり、その2年後の2010年には、「第8回ワールドカップ・アルゼンチン大会」2012年には「第9回 ワールドカップ・ロシア大会」へ選手団が派遣されるまでに広がっていった。

パラリンピック競技になることを目指して

 最後に競技者としての目標を聞いた。

 「もっと広く国内外に認知される競技になって、最終的にパラリンピック競技になることです。そしてメダルを取ることです。一番高いところのメダルを取りにいきたい。そのためには、参加国や競技人口など、いろいろな条件が必要になってきます。世界の国や地域で定期的に大きな大会が開かれていることが目安になってくると思います」

第1回日本アンプティサッカー選手権大会。エンヒッキさんの日本での夢はまだ始まったばかりだ

 「国内ではアンプティサッカーを始めて人生が甦ったとほとんどの選手たちが思っています」

 「足がないから、手がないからといって、人生まで終わったわけじゃありません。人間はどんな障害を持っていても、やればできると思っています。スポーツをすることによって気持ちが前向きになって、毎日頑張れるようになります。誰もが完ぺきではありません。周りの人から可哀そうと思われるんじゃなくて、自分が一生懸命やることによって凄いと思われるようになればいいんです。諦めずにやり続けることによって夢は必ずかなうと思っています。夢ですよ、夢。人間は可能性の塊です」

 エンヒッキの言葉には説得力がある。楽しみながら、夢の一つひとつを実現しながら追い続けているからだろう。

 彼は「死ぬまでこの競技に関わっていたい」と語っている。


エンヒッキ・松茂良・ジアスと日本のアンプティサッカーの歩み
1989年 ブラジル サンパウロに生まれる。
2007年 ブラジル代表に選出。ワールドカップ・トルコ大会に出場。
2008年 来日とともにアンプティサッカーの活動を開始。
2010年 日本アンプティサッカー協会設立。
2010年 アンプティサッカークラブFCガサルス設立。
2010年 第8回 ワールドカップ・アルゼンチン大会に出場。
2011年 第1回日本アンプティサッカー選手権大会開催
2012年 第9回 ワールドカップ・ロシア大会に出場。
2012年 第2回日本アンプティサッカー選手権大会開催


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