以前ヨーロッパの映画批評家たちと各国の映画の特色を話し合っていたとき、フランスの批評家がフランス映画の特色はお喋りなところで、それは国民性に由来すると言う。なるほどと思った。お喋りには国民性もあるが地域性もあるだろう。日本人は全体としては口数が少ないほうだが、大阪だけは特別で、お喋りを誇りとし、それが漫才や喜劇などの独自の文化の土台になっている。日本映画は東京と京都を東西の拠点として発達してきたが、一方が京都でなく大阪だったら、内容もだいぶ違っていたかもしれない。
大阪出身の大女優に山田五十鈴(やまだいすず、1917年〜)がいるが、若き日の彼女の代表作である「浪華悲歌(エレジー)」(1936年)は、トーキー初期でまだ映画にどれだけセリフを盛り込めるか、とくに方言は使っていいかどうかとみんな迷っていた頃に、溝口健二監督が思いっきり饒舌に大阪弁の悪口雑言などを喋らせた映画だった。山田五十鈴が見事にそれを言いこなしたことは言うまでもない。
大阪は東京、京都と対抗する芸能の都だった。そこで主に大阪で活躍した新派劇の人気役者山田九州男(くすお)と、律という北の新地の売れっ子芸者の間に生れたのが山田五十鈴で、幼い頃から徹底的に三味線や踊りの芸ごとを仕込まれている。そうした芸人でありながら、この「浪華悲歌」では先端的な不良少女をそれまでの日本映画にないリアリズムで演じた。情緒的な芸を修業しながらリアリズム演技でも先頭を切ったのは、上方歌舞伎の和事のリアリズム演技の伝統に連なるものかもしれない。
男で大阪出身の大スターといえばまず森繁久彌(1913年〜)をあげないわけにはゆかないが、彼の最大の武器が話術の巧みさにあることは言うまでもない。彼の出世作であり初期の代表作でもある「夫婦善哉(めおとぜんざい)」(1955年)は、だらしなく意気地のない男が、言いわけやら勝手な文句やら、とことんヘラズ口を叩きつづけるという話だった。これは大阪弁だったが「次郎長三国志」シリーズの森の石松とか、社長シリーズの社長など、大阪弁でなくたって軽い機知に富んだお喋りを映画の重要な要素のひとつに定着させたのは森繁久彌だった。
漫才出身や軽演劇の出身で滑稽なお喋りを武器にした俳優はたくさんいるのだが、森繁久彌の場合はシリアスな映画のリアルな演技にも成功した。それでお笑い出身の長年下積みの苦労をしてきた彼のような俳優のほうが、苦労人を演じさせるといっそう渋くて深い味も出せると証明した功績が大きい。彼以後、彼にならってお笑い系の俳優たちがいっせいにシリアスな役にも進出して、日本映画を演技面でうんと豊かにしたからである。
森繁久彌の出世作「夫婦善哉」で、彼の演じるぐうたら息子が金をせびりに勘当された大阪の問屋街の実家に行くと、それをニベもなく追い返す婿養子を演じていたのが山茶花究(さざんかきゅう、1914〜1971年)である。森繁の無名時代の俳優仲間で、コミック・バンドの「あきれたぼういず」に参加してもとくに目立ったところはなかったのだが、森繁の推せんでこの小さな役を演じて、その鉄面皮ぶりにアッと言わせ、以後ツラの皮の厚さで押し通すような役ではなくてはならない存在になる。彼が一言、「あきまへんな」と大阪弁で言ったらもうどうにもならないのだ。
大阪弁の喜劇俳優と言えばもちろん藤山寛美(ふじやまかんび、1929〜1990年)はそのトップに位置する大物である。ただ舞台が主だったのでこの「映画人国記」としては扱いは小さくなるが、映画でも特別出演的に小さいが重要な役にはよくでた。主演も若干あって、なかで大阪落語の名人を演じた「色ごと師春団治」(マキノ雅弘監督、1965年)がある。これが大阪ふうの笑いの神髄を伝えるものとして貴重である。(次回、大阪編最終回)
◆次回更新は5月7日(木)を予定しています。
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