2024年12月21日(土)

勝負の分かれ目

2023年8月28日

亡き父からミリ単位で指導

 この物語には続きがあった。長兄の一郎とともに、父の厳しい指導を受けてきた男子100キロ超級の立が頭角を現したのだ。191センチ、165キログラム。日本人離れした恵まれた体格から、投げっぷりのいい父譲りの体落としを得意とした攻撃的な柔道が魅力だ。

 幼少期は自宅や、家族で出かけた先々で、亡き父からミリ単位で踏み出す足の位置にまでこだわった指導を受けてきた。小学6年で全国少年大会を制していた立は「お父さんみたいに強くなる」と別れ際に誓い、有言実行で実力を培ってきた。

 18歳で出場したジュニアの国際大会で初出場優勝。昨年4月の全日本では悲願の頂点に立ち、一気に来夏のパリ五輪代表候補へと名乗りを上げた。

 直後の世界選手権は初出場で銀メダル。「斉藤仁の息子」ではなく、「柔道家・斉藤立」として世界が認める存在となった。立は五輪代表選考対象期間の5大会のうち、4大会でメダルを獲得し、8月23日の全柔連強化委員会でパリ五輪代表選考へ初選出された。

 親子2代での五輪代表は「柔道大国・ニッポン」の歴史の中でも史上初めての……。本来なら「快挙」という言葉をつなぎたいが、柔道界の評価は五輪代表に決まっただけでは定まらない。五輪の金メダルか否かまで持ち越される厳しい世界である。実際、五輪や世界選手権で銀メダルを首から提げ、「敗者」の十字架を背負った選手たちを何人も見てきた。

近年は厳しい状況にある「日本男子重量級」

 21歳の若武者に託された期待は、並大抵ではない。それは、五輪における日本最重量級の歴史と大きく関係する。

 柔道が初めて五輪競技に採用されたのは1964年の東京五輪だった。このとき実施されたのは軽量、中量、重量と無差別の4階級だった。3つの金を獲得した日本はしかし、無差別での頂点を逃した。

 「柔道で日本が負けた」。当時を知る関係者によれば、3つの金メダルを吹き飛ばすような衝撃が走ったという。

 その後は上村春樹が76年モントリオール(カナダ)五輪で無差別初となる金メダルを獲得し、84年は男子95キロ超級で斉藤仁、無差別で山下泰裕が頂点に立ち、88年ソウル五輪は斉藤仁が2連覇。2000年は井上康生がシドニー五輪男子100キロ級を制し、04年アテネ五輪は前述の鈴木、08年北京五輪は石井がそれぞれ制している。しかし、その後の「日本男子重量級」は五輪3大会で頂点を逃した。

 この間、最重量級はフランスの絶対王者、テディ・リネールの時代へと突入した。07年の世界選手権で18歳にして井上に土をつけたリネールは12年、16年と五輪2連覇、世界選手権は史上最多8連覇を成し遂げた。休養を挟んで臨んだ21年東京五輪は銅メダルに終わったものの、来夏のパリ五輪は自国開催とあって闘争心を高めている。


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