2024年夏のパリオリンピック(五輪)に出場する柔道日本代表選手が次々と内定している。男子最重量の100キロ超級代表に初めて選出されたのが国士舘大学4年の斉藤立だ。
柔道の斉藤仁の名前を思い浮かべる読者も多いだろう。立は仁の次男である。親子2代での五輪代表で、立が背負うのは、実は「日本柔道の最重量級復権」という重責でもある。
若くしてこの世を去った父の存在
1980年モスクワ五輪を政治的な理由でボイコットした日本で、柔道無差別と、男子95キロ超級(当時は男子のみ実施)の2階級で代表に内定していた山下泰裕は、無念に涙した。4年後のロサンゼルス五輪。大一番を翌日に控えた山下の部屋をノックしたのが、男子95キロ超級に金メダルをもたらした直後の斉藤仁だった。
体重無差別で日本一を決める全日本選手権で前人未到の9連覇を果たした山下の壁に阻まれた斉藤が山下の引退後に世界選手権を制したときの「エベレストには登ったが、まだ富士山には登っていない」は後世に受け継がれた柔道界の名言となっている。
「先輩、これが五輪の金メダルです。あした(無差別)、頼みます」。山下は斉藤の言葉に心震わせ、4年越しの悲願を叶えた。
斉藤は続く88年ソウル五輪では競技の最終日、それまで金メダルゼロだった日本柔道界の威信をかけて畳に立って見事に柔道界の2連覇を成し遂げた。
日本男子の監督を務めた2004年アテネ大会で鈴木桂治、08年北京大会は石井慧をいずれも男子最重量の100キロ超級(無差別はソウル五輪からは廃止)で金メダルに導くも、その後は苦難の道をたどった。
全日本柔道連盟(全柔連)強化委員長として臨んだ12年ロンドン五輪は史上初の金ゼロ。翌年には女子指導陣による暴力問題が発覚した。火中の栗を拾い、柔道界の再建に取り組んだ途上、15年1月に肝内胆管がんによって、54歳の若さでこの世を去った。