2024年5月20日(月)

絵画のヒストリア

2023年10月1日

 ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが断頭台に送られたフランスでは、国民議会が1793年にスペインに対し宣戦を布告した。ゴドイは「神と王と祖国」の名のもとの戦いの矢面に立って、陰り行くスペインの希望をかろうじてつないだ。

 「不聖なる三位一体」の中心にあって、王妃ルイサはカルロス4世公認の青年宰相ゴドイの歓心を得ることで権勢を広げてきた。しかし、もちろんこれは全く完璧な力の均衡をもった三角形ではなく、王妃の虚栄や嫉妬でたやすく崩れる脆さを持った。

斜陽のスペインとゴヤの運命

 トライアングルの外側の宮廷首席画家に過ぎないゴヤは1797年、社交界の花として美貌で名高いアルバ公爵夫人の肖像を描いた。華やかで知性あふれる名門アルバ公爵家の13代当主で、王妃ルイサが激しい対抗意識を燃やす女性だが、人を引き付ける会話や身に着けた趣味の良いファッションまで、すべての面で王妃に勝ち目はない。

 金色の上衣に黒のレースの服を着た下町の伊達女姿を描く『アルバ公爵夫人』のなかで、ゴヤは地面を指さすモデルの指輪に〈Alba Goya〉という文字を刻み、その指さした先の砂地には〈Goya Solo〉 ―ゴヤひとり、と描き込んだ。

ゴヤ「アルバ公爵夫人」(1797年、油彩・カンバス、ニューヨーク、ヒスパニック・ソサエティ蔵)(ALBUM/アフロ)

 画家が激しい情熱を燃やした公爵夫人に対して、王妃ルイサが嫉妬と憎悪を募らせていくのは、アルバ公爵夫人がそのころナポレオンとかかわってある政治的な陰謀に加担していたのがきっかけといわれる。ゴドイを通じてアルバ公爵夫人に対し、マドリードからの強制退去命令を下すという非常手段に出たルイサは、ゴヤが「家族図」を描いたのとほとんど同じ1800年の4月に、ゴドイにあててこんな手紙を送っている。

〈女アルバが今日の午後、別れを告げに来た。まるで骨と皮になってしまっていた。むかしあんたとのあいだにあったようなことは、いまとなってはもう起こらないって思いますよ。あんたもきっと後悔していることでしょうがね〉

 ゴヤばかりか、情人の首相ゴドイまでを手玉に取る美貌のアルバ公爵夫人が売国的な政治の陰謀にかかわっている。それを知ったルイサがゴドイにあてた、何とも蓮っ葉な手紙である。「彼女や、あの一党は深淵の底へ埋めてやらなければなりません」とまで書く王妃ルイサの憎悪の深さを裏付けるように、アルバ公爵夫人は2年後の1802年7月、突然死んだ。毒殺、という説が今日でも有力である。

 この国の斜陽はそれ以降、覆うべくもない。

 スペインとフランスは妥協の同盟関係を結ぶが、やがてナポレオンの大陸封鎖令のもとでスペイン艦隊が滅んで、1808年にカルロス4世は譲位、ゴドイも逮捕された。

 カルロス4世と王妃ルイサ、そしてその愛人の成り上がり宰相マヌエル・ゴドイによって結ばれた「不聖なる三位一体」の時代は、かくして幕を下した。

 カルロス4世と王妃ルイサは1819年に死去、失脚したゴドイは祖国を追われて亡命先のフランスで晩年を生き延びた。

 宮廷画家のゴヤは「不聖なる三位一体」が崩壊してゆく渦中で、深い思いを寄せたアルバ公爵夫人を失い、祖国スペインの黄昏を眺めながら長い晩年を生き続けた。

 『家族図』の左端に描いた白面の皇太子フェルナンドは1814年、追放されたフランスからようやく帰還した。「嘱望の王」として迎えられると、それまでフランスに協力的だった人物を次々に「祖国への裏切り者」として追放する。しかし、ゴヤに対しては「お前も縛り首にすべきだが、偉大な芸術家であるからすべては忘れよう」と、改めて宮廷画家に指名した。

 ゴヤはかつて「家族図」に描いた16歳の皇太子フェルナンド、いまは亡命先のフランスからようやく戻った「嘱望の国王」の肖像画を、求められるままに粛々と描いた。

古今東西の名画をめぐってその成り立ち、画家やモデルの秘話、時代を隔てた作品の流転や社会のなかに立ち上がる物語を描く連載「絵画のヒストリア」の記事はこちら

   
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