むしろ李克強氏は、少数民族政策が厳格・残酷の度合いを強めた中にあっても、徹底的な打撃を叫ぶ習氏とは全く異なるアプローチを取ろうとした。新疆における「厳打」方針が決まった14年の中央新疆工作会議の場においても、李氏は必ずしもその全体方針に付和雷同したわけではなく、まず何よりも経済を発展させ、少数民族にも発展の利益を供与し、温かいバックアップで少数民族の職業訓練と華語への習熟を促進してこそ、ついに少数民族の就職難も解決し、「極端分子」は自ずと減り、漢族と少数民族の関係も改善すると説いたのであった。(流出した新疆秘密文書による)
李克強が歩んできた「道」
李克強氏の発言や考えはこのように、まず民生から、経済発展から、という視点が一貫しており、その結果、人々の生活に寄り添う発言や行動が前面に出てきやすいという特徴がある。李氏は立場上、民衆の自由な発言を認めるわけではないものの、少なくとも伝統的な「親民」の精神にあふれているという点では、常にイデオロギーの正邪にこだわり、「勝利」を目指して積極的に生きることを要求する習近平氏よりもはるかに上である。
それは恐らく、李克強氏がたどってきた人生遍歴ゆえのものであった。
李氏の出身地である安徽省北部は、湿潤で豊かな近隣の江南地方や安徽省南部とは全く異なる、乾燥し荒涼とした雰囲気すら漂う貧しい地域であり、今日でも出稼ぎ労働者を多数輩出する地域である。とりわけ、李氏が中等教育を受けたのち「下放」されて赴任した安徽省鳳陽県は、70年代後半当時極貧の中の極貧にあえぐ地域であった。
その中の一つの人民公社が平等な集団労働の非効率に耐えかねて、反革命呼ばわりによる死をも覚悟して個人労働を求める血判状を作成し、のちの生産責任制(請負制)につながる農業生産の大転換が起きたことは、中国改革開放史の一つの出発点として記憶されるところである。文革の混乱以来最初の大学入試で北京大学に合格したという点で超エリートにあたる李氏は、若くして見届けたあらゆる困難を踏まえて、少しでも発展に寄与する考えや方法であれば何でも柔軟に採り入れるという発想を強め、ついには経済学博士の学位を取得したのであった。
また李氏が大学に学んだ改革開放初期は、中華人民共和国史上最も「自由」な時代であった。毛沢東時代すら逃れることが出来なかった中国伝統王朝の繁栄と衰退のサイクルをめぐる議論が高まりを見せ(金観濤・劉青峰『中国社会の超安定システム』など)、その中から1989年の民主化運動を誘発する一因となった中国中央テレビの『河殤』が制作され、巨大な反響を呼ぶなどしていた。
「黄河の未成熟な死」を意味するこのドキュメンタリーは、濁って断流すら起こる黄河もやがて青い海に至るように、専制の中国文明も開かれた自由な西側文明と融合すべきことを説くものであった。李氏もこのような議論に影響を受けた可能性がなかったとは言い切れない。
以来李氏は、90年代以後徐々に強まるイデオロギー的制約の中でも、常に対外開放と、党・国家システムの枠内における情報公開・説明責任の徹底、行政サービスの向上による発展の加速・民生の改善を説いてきた。
李氏の名を高めた98年からの河南省トップ時代、李氏は河南省の雰囲気を一変させ、急速な発展の軌道に乗せることに成功した。この地は、遥か古代には中華文明の源であったかも知れないが、90年代までにすっかり没落し、売血で省の経済を立て直そうとする杜撰な政策のもと、大規模なHIV感染禍が引き起こされ、河南省の雰囲気は打ちひしがれきっていた。そこに李氏は大規模な投資を招き入れ、「中原崛起」と呼ばれる高度成長を実現させた。