2024年12月13日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2023年11月8日

 今年3月まで10年間にわたり中国の首相を務め、中国共産党(以下、中共)の党内序列2位にあった李克強氏が、10月27日に心臓麻痺で死去し、11月2日に告別式と火葬が執り行われた。

李克強前首相が幼少期を過ごしたとされる中国中部の安徽省合肥市の住宅の外には、訃報を受けて多くの花が供えられた(AP/アフロ)

 この数日間のうちに中国から伝わった情報は、この国の体制の闇深い本質を見せつけているとともに、今後の中国のさまざまな可能性を匂わせる。

 その意味を、李克強氏自身の業績や、彼が生きた時代も含めて考えてみたい。

中国共産党が見せた「追悼」

 今般の李克強氏の死にあたって際立ったのは、中国の不特定多数の人々が示した弔意の強さと、中共中央が死の事実をなるべく小さく見せようとしたことの落差である。

 李克強氏の死が伝えられると、少年期を過ごした安徽省合肥市の旧居、安徽省滁州市の出生地、そして河南省党委員会書記・省長を勤めた河南省鄭州市の広場など、各地で追悼の波が現れた。

 昨年11月末の江沢民氏の死にあたっては、急速な経済発展が始まった1990年代において党と政府の舵取りをした同氏のおかげで「発財」でき、今よりは経済活動を中心に「自由」だったという印象ゆえに、ネット上で弔意を示す人々が現れた。しかし、実際の行動として多くの弔意が示されたという点で、李克強氏の場合は江沢民氏と比べて破格であった。

 これに対して、中共中央は李克強氏の死をなるべく小さく扱い、しかも暗に侮辱する態度すら示した。

 そもそも、李克強氏の死に至る経緯自体にも疑問符がつきまとうが(上海最高レベルの心臓病医療拠点ではなく中国医学の拠点に救急搬送された)、中共は李克強氏の死の直後から、その巨大なピラミッド組織を使って全国のあらゆる機関と個人に対し、党と政府が示した範囲を超えた弔意や論評を示してはならないと釘を刺していた。(X=旧ツイッターのアカウント「李老師不是你老師」による)。

 では、実際に中共中央が「模範」として示した訃告文はどのようなものであったか。


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