一応そこには、「円満に」死を迎えた中共中央関係者に贈る「優秀な党員、久しく試練をくぐり抜け忠誠心ある共産主義戦士、傑出したプロレタリア革命家、政治家、党と国家の卓越した領導人(指導者)」といった定型文が並ぶ。そして業績についても過不足なく、経済発展、民間社会経済の成長に寄与する政府づくり、民生の向上、「中国製造2025」や「一帯一路」といった発展戦略の策定といった内容が並ぶ。
しかしその締めくくりには「彼の死の悲しみをいっそう新たなエネルギーに変え、革命精神と崇高な道徳・優良な作風に学び、習近平同志を核心とする党中央の周囲に団結せよ」とある。訃告文にしては随分と、最高指導者の自己顕示欲が押し出されているという印象は否めない。
また『人民日報』公式HPにおいて、李克強氏の死はしばらくの間小さなフォントで伝えられ、しかも画面は通常通りの鮮やかな色があふれ、最上部には習近平氏の顔写真入りバナーが君臨し続けるという、いささか奇異な光景が続いた (さすがに火葬の当日・翌日は、習近平氏の顔が消えた)。
総じてこの数日間、中共中央は李克強氏の死を人々に自由に語らせまいとしたほか、その死すらも習近平氏が自らの下に置こうとした姿勢が余りにも顕著であった。そして今や、李克強氏の火葬が終了したことから、合肥をはじめ各地の慰霊の花束が一斉に撤去され、弔問客は排除されるようになった。李克強氏の死を悼む人々が、一連の厳格なやり方に不満を強めていることは想像に難くない。
習近平政権が警戒する〝哀悼運動〟
中国の人々の間から自発的に大規模な指導者哀悼の動きが起こり、時の権力者が弾圧した事例として直ちに思い浮かぶのは、1976年の四五天安門事件と、1989年の六四天安門事件である。
四五天安門事件は、文革中に毛沢東の威を借りた林彪がクーデターに失敗してモンゴルで墜落死した後の権力闘争の果てに起きた。毛時代に長く首相を務めた周恩来氏は、文革の混乱と貧困で打ちひしがれた中国を立て直すため、「実事求是」の精神で実務を仕切ろうとしたものの、まさにそれゆえに永続革命を求める毛沢東との折り合いが悪く、新たに毛の威を借りた「四人組」が仕掛けた「批林批孔」キャンペーンで、儒学の祖・孔丘と同じ「反動」のイメージを被せられた。
周恩来氏は、癌に侵されつつも死の直前まで孜々として政務に当たったが、その姿は政治運動の荒波に疲れ果てた中国の人々の強い同情を誘った。そこで人々が周氏を追悼し「四人組」を批判するべく天安門に集ったところ、「四人組」が弾圧を加えた。「四人組」は間もなく毛沢東の死とともに失脚し、「反革命」と断罪されたことで、中国の人々は激しく歓喜し、このような混乱を繰り返したくないという願望が改革開放の原動力となった。