2024年5月16日(木)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2023年11月8日

李克強氏は西側の価値観を兼ね備えていたのか

 筆者の見るところ李克強氏は、ここに至る改革開放40年余りの歴史に選ばれ、その歴史の栄枯盛衰を演じる中で、人々によって周恩来・胡耀邦・趙紫陽氏に重ね合わせられ、変革を求める錦の御旗に祭り上げられた存在であった。

 もっとも、例えば周恩来氏が文革にあたって毛沢東を支持するという誤った立場を示したことに象徴されるように、これらの指導者が最初から「人民の指導者」として完璧な人格であったのかと問えば、必ずしもそういうわけではなかろう。李氏についてもこのような問題がある。

 李克強氏の死に際し、多くのメディアは「経済学に通じ、英語を流暢に話す、開明的な改革派のホープであったが、習近平の圧倒的存在感ゆえに実力を発揮できず、弱い立場の首相としての退場を強いられた」と論評する。そして、李氏の死を悼む人々がしばしば「自由・民主」といった言葉を寄せていることもあり、あたかも李氏が西側に通じる価値観の持ち主であったとする向きが多いように思われる。

 しかしそれはどれだけ適切なのか。李克強氏は北京大学在学中から、学生会の幹部として権力の末端を担い、大学院在学のかたわら中共の若手党員候補生養成組織である共産主義青年団の専従幹部となり、さらにはそのトップとなった人物である。

 一応李氏は、北京大学の学部生時代は法学・政治学を学び、西側諸国の社会科学が一気に紹介された改革開放初期の知的雰囲気に触れ、積極的に諸学説を学んだ。しかし、中共の存在こそ中国に発展をもたらし強くするのであり、そのためのエリート=党の指導を否定すべきではないという考えを自ら否定したことはない。

 また李氏は、首相として必ずしも才覚を発揮しきれなかったかも知れないものの、習近平氏がイデオロギー的統制と大国間の角逐に主な興味を注ぎ、経済の順調な発展のために何が必要かを余り理解していないように見えるからこそ、彼に足りない部分を李氏が補い、10年間にわたり習=李体制はそれなりに機能してきたとみることもできよう。とりわけ、李氏が経済・産業の発展ビジョンを描く中から生まれたのが「一帯一路」「中国製造2025」のグランドデザインであったという。

 さらに、17年以後新疆ウイグル自治区、19年以後香港で人権が蹂躙される中、李克強氏はあくまで「中華民族共同体意識の鋳牢(叩いて固めること)」なる極めて抑圧的な政策の側に立ち続けてきたし、新型コロナウイルスの3年間も、具体的な対策をとる責任者的立場にもあった。

 したがって筆者は、李克強氏は年々抑圧と覇権主義的な性格を強めていった中共主導のナショナリズムとともに生きており、習近平政権の陰の部分に対する責任を負うべきであることに変わりはなく、本当の意味で開明的な人物であったかどうかについては判断を留保せざるを得ない。もちろん最終的な責任は、何事も「親自指揮」を掲げる習近平氏が負うべきであるが、補助者としての李氏の存在感もまた否めない。

 それにもかかわらず、なぜ李氏は人々の敬愛を集め得たのか。鍵になるのは、李氏の詳細な経歴にあると思われる。(続く)

「李克強の死去が語るもの」の記事はこちら
 

   
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