1989年の六四天安門事件は、改革開放初期の1980年代前半に中共総書記を務めた胡耀邦氏の死が導火線であった。胡氏は、文革被害者の名誉回復や救済、少数民族との関係改善、将来の自由化を見据えた「党内民主」をめぐる議論への寛容など、総じて開明的な精神で実務に臨んでいた。しかし、中共は「政権は銃口から生まれる」マルクス・レーニン主義を掲げ、「人民が立ち上がって武装した」人民解放軍こそが権力の源泉であるとする。その究極のトップにあたる中央軍事委員会主席の座は鄧小平氏が握り続け、胡耀邦氏は後ろ盾の弱い「雇われ社長」的存在に過ぎなかったため、やがて保守派による「ブルジョア自由化批判」で失脚した。
そこで、胡耀邦氏の死を悼む人々が北京・天安門の人民英雄記念碑に献花し、その中から党官僚の腐敗への憤りとともに民主化運動が起こった。胡耀邦氏に代わって中共総書記となった趙紫陽氏は、民主化運動に理解を示したものの、中央軍事委員会主席は依然として鄧氏であったため、鄧氏による「反革命暴乱」鎮圧の方針のもと、凄惨な鎮圧と趙氏の失脚に至った。
選んだ「安定」社会と「富強」の形
以来中共は、引き続く東欧・ソ連社会主義圏の混乱と崩壊もあって「西側による社会主義転覆の試み=和平演変」という発想を強め、だからこそなおさら経済発展を進めて西側を牽制し、西側の価値観ではなく中共の価値観によって「富強」を実現しなければならないという信念を強めた。そして1992年以後、鄧小平「南巡講話」に端を発する高度成長が始まったことで、改革開放の経済的側面は大いに顕現された。しかし、急速な発展により深刻な資源配分の歪みや腐敗が生じたにもかかわらず、中共党体制への批判は「中共こそ抗日を進め、今日の中国を創った」と説く愛国主義的言説のもと厳しく封じ込められ、改革開放の政治的側面は大幅に後退した。
そこで人々にはただ、中共中央が少しでもましな精神で「法治」を打ち立て(「正しい支配」で何事も統制するために法を制定することを意味する。一般的にいう「法の支配」ではない)、党官僚が腐敗まみれにならず、清廉さと民衆サービスに努め、引き続き経済が発展するよう期待する、という選択しか残らなくなった。
2012年に発足した習近平政権が、「反腐敗」を掲げて政敵を潰し、「社会の安定を乱す少数民族の分裂主義者や宗教極端主義者」を弾圧し、「一帯一路」や科学技術の「創新」を梃子にして「富強」を実現し、西側主導の世界にとって代わる「中国夢」を提示したことは、この体制の論理の中でいっそう人々に「中国人であることの幸せ」を提供しようとしたものとみることもできる。新型コロナウイルス問題が諸外国の大混乱を引き起こし、武漢での混乱を抑え込んだ中国が相対的に「平穏」であった頃までは、どれほど習近平政権が強権に傾きイデオロギー的な窮屈さを強めようとも、まさに「安定」ゆえに体制の論理を多くの人が受け入れ、新疆・香港の悲劇に対して見て見ぬ振りであった。