習近平氏が、死した李克強氏の姿や評価を人々の前に見せることを最小限にするようこだわり、さらには自由な評価を一切許さず、葬儀の終了とともに献花も一斉に処分して、あたかもこの約1週間の事態がなかったことのように取り繕っているのは何故か。それは、「究極の聖人君子」としての自らと並び立つ存在としての李克強氏が人々に意識され続けることを徹底的に嫌うからである。既に、新華書店(国営書店)に置かれている李克強氏の著作についても、消される(共著については李克強氏の名前のみ、本の画像にぼかしが入れられる)動きが始まっているという。
中国の閉塞感はどう打破されるのか
中国は、もし今後も古代王朝のライバル抹消に似たやり方を繰り返し、さらなるイデオロギーの締め付けで息詰まる雰囲気が強めるならば、ゆっくりと沈滞の道を進むことになろう。筆者は、核兵器などの高度な軍事技術を持ちながら、民生を十分満たせず衰退した超大国・ソ連の再来とみる。
しかし、今や中共の側がAI・ITを駆使した高度な社会管理技術を持っている中、少なくとも習近平氏が生き続ける限り、決定的な転換点は訪れない。そして、チベット・新疆・香港問題の悲劇や宗教「中国化」の圧力、昨年の白紙運動や今般の李克強氏哀悼のような不協和音、そして経済悪化や官僚の不正などに伴う人々の痛みと怒りが、少しずつ中国社会の中に蓄積されてゆくことになる。
人々の静かな痛みと怒りがいつどのような形で激発されるのか。それは全く分からない。それまでは、人々の面従腹背が続く。
そのことに対する焦燥を強めた習近平政権が、社会全体の閉塞感を一気に打破し、「中華民族の偉大な復興」を人々に見せつけるため、台湾侵攻、そして「台湾の一部分」である尖閣への侵略などの現状変更的な動きに出る可能性について、今後ますます考慮せざるを得ない。