2024年11月22日(金)

霞が関の危機は日本の危機 官僚制再生を

2024年1月24日

 1990年代、日本の首相・リーダーの存在感が希薄だという意見が多勢を占めていた。政治主導・官邸主導を望む声は、「日本の為政者にもっと手腕を発揮してほしい」という叱責交じりのエールだと受け止めていたし、私自身もそうあるべきだと考えていた。

 政治主導が加速するにつれ、官僚の相対的な地位や役割が低下しているとの評価がある。だからと言って必要以上に萎縮する必要はないであろう。ところが、現状では官僚たちが不必要なまでに謙虚に、弱気になっており、政治主導に対する「諦観」に浸り過ぎているのではないかと心配している。

 その原因は、誤解を恐れず言うと、政治主導を掲げながらも官僚機構をうまく使いきれていない政治の側にも問題があるだろうが、官僚にも問題があるのではないかと感じている。

官僚は自負心で凝り固まってはいけない

 「全体の奉仕者」である国家公務員は、国民の税金から給与が支給され、国家国民のため、社会正義のため、政策をより良くするために仕事をする専門家集団である。その意味で、ベターチョイスがあると感じれば、相手が上司であれ、国会議員であれ、おもねらず、意見具申しなければならない。

 しかし、内心では良いアイデアがあると思っていても、それを進言しない官僚が存在することは確かだ。これは、今に始まったことではなく、いつの時代にも一定数いる(民間企業でも同じかもしれない)。

 高偏差値の大学出身で、難関の国家公務員試験に合格して入省した官僚に、一定の自負心があるのは否定しないが、その高さが仕事をするうえでの足枷になっているとしたら、本末転倒であろう。政治家に嫌われたくない、意見を言って間違っていたら評価が下がる、部下の前で叱責されたくない、異動で閑職に追いやられるのが怖い─。そう思うのも理解できるが、ベターチョイスがあると思っても意見しないようでは、官僚としての職責を果たしているとは言えないのではないだろうか。

 このことを考える時、私の中で、小説家の中島敦が著した短編小説『山月記』に登場する主人公が頭をよぎる。『山月記』は、唐代の中国で若くして科挙に合格した主人公が平凡な仕事に満足できず、その尊大さから俗世間との関係を断っているうちに、羞恥心に苛まれて、最後は「虎」になってしまうというストーリーだ。

 官僚たちが私心や保身から行動を抑制し「きじも鳴かずば撃たれまい」とばかりに口をつぐんだり、「上司や政治家に言っても分かってもらえない」と思っていたりするようでは、『山月記』の主人公と同じであろう。

 官僚に元気がない要因は複数あると思うが、自負心で凝り固まっているようであれば、それは改めるべきだ。

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Wedge 2024年2月号より
霞が関の危機は日本の危機 官僚制再生に必要なこと
霞が関の危機は日本の危機 官僚制再生に必要なこと

かつては「エリート」の象徴だった霞が関の官僚はいまや「ブラック」の象徴になってしまった。官僚たちが疲弊し、本来の能力を発揮できなければ、日本の行政機能は低下し、内政・外交にも大きな影響が出る。霞が関の危機は官僚だけが変われば克服できるものではない。政治家も国民も当事者だ。激動の時代、官僚制再生に必要な処方箋を示そう。


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