3位決定戦を延長の末に制して表彰台を死守したウルフは疲労困憊で、試合後の取材スペースでもスポーツドリンクを口にして、しゃがみ込んでいた。東京五輪時は接戦に強く、延長に入ると粘り強く、執念で勝ちをつかむことから「ウルフタイム」と呼ばれた驚異のスタミナと勝負強さも影を潜めた。
「ウルフタイム」が仇に
その後は22年12月のGS東京大会、マスターズ大会でいずれも初戦敗退に終わり、23年になっても苦戦を強いられた。五輪で柔道は男女各7階級で実施され、日本は全階級に代表を送り込む。23年6月の強化委員会では、ともに五輪連覇に挑む阿部一二三、詩(いずれもパーク24)ら4人が一番乗りで内定を勝ち取り、同年8月には新たに6人が代表に内定し、昨年12月のGS東京後には100キロ級を除く男女13階級の代表が決まった。
ウルフが低迷し、他の選手も決め手に欠く中で迎えた男子100キロ級だったが、このGS東京大会で一つの転機を迎えた。世界選手権に3大会連続で出場し、わずかながらに代表選考争いをリードしていた飯田健太郎(旭化成)が2回戦敗退で代表入りが絶望的となった。
ウルフも準々決勝で敗退と結果を残せなかった。そんな中、世界ジュニア王者で18歳の新井道大(東海大)が世界王者を破るなど好印象を残して準優勝した。
大会後に会場の東京体育館で開催された強化委員会で、この時点での一番手は新井であることが確認された。鈴木桂治監督も強化委員会後の会見で新井の戦いぶりを高く評価。シニアの国際大会での経験が少ないとはいえ、新井がこの2月の欧州遠征で結果を出せば、代表決定との流れへと傾いた。この時点で、ウルフは崖っぷちへと追いやられた。
ウルフは五輪後、なぜ苦しんだのか。ヒントの一つになるのが、かつての強さの源泉だった「ウルフタイム」への過信だったという。
ウルフは2月のGSパリ大会後のテレビ朝日系列「報道ステーション」で松岡修造氏のインタビューに「東京オリンピックが終わってから、『ウルフタイム=延長戦強い』と言われてはいたんですけど。逆に、自分もそれを考えすぎちゃっていて。延長線のことを考えて試合をしてしまうと、試合の入りが甘くなるんですよ」と明かしている。
「ウルフタイム」は序盤から泥臭く戦い、相手に重圧をかけて追い詰めていったからこそ、延長で息が上がる相手を仕留めることができた。五輪後はよりスピーディな試合展開が求められ、消極的な選手への指導のタイミングも早くなったとの指摘がある。
ウルフ自身も23年8月22日に配信された日本経済新聞のオンライン記事で、東京五輪後について「ルールが変わり、今は指導が(出るタイミングが)早い。相手の組み手のスピードにも対応できていなかった」と打ち明けている。
こうした流れに沿う海外勢に対し、技出しの遅さは命取りになった。最初から延長も見据えた戦いをしたことで〝隙〟が生まれ、結果的には試合時間の4分で敗北を喫していたことを痛感したのだった。