2024年12月22日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年2月25日

『2023.11.11~12.28 47日間 総費用22万円(航空券8万7000円含む)』

プランテーションとしての紅茶農園

創業150年のヌワラ・エリアのグランド・ホテルのメイン・ダイニング・ホール。かつては地域の英国人紅茶農園オーナーや支配人が夫人同伴で四季折々の 晩餐会を催していた

 12月7日。スリランカ南部に広がる高原地帯は英国植民地時代から続く紅茶栽培の中心地である。キャンディーからヌワラ・エリア迄の高原地帯をおんぼろローカルバスに揺られて3時間半、バスの両側に延々と見える限り紅茶畑が広がる。営々と何世紀もの間お茶の木を育ててきた人々に思いを馳せる。

 1948年の独立以前は英国人農園主(planter)の下で多数のスリランカ人労働者が働いて製品の紅茶を英国本土および世界に輸出していた。典型的な植民地支配におけるプランテーションだ。独立後には紅茶農園のかなりはスリランカの民族資本や有力農民に継承されたが経営形態はプランテーションと変わらないのだろうと想像した。

 7年前にインドのダージリンの紅茶農園と製茶工場を見学(観光客用の見学コース)したことがある。紅茶畑が急峻な段々畑になっており茶摘み作業がかなりの重労働であるということくらいしか印象に残っていないが経営形態はスリランカ同様なのではないか。

どこまでも続く700ヘクタールの紅茶畑の支配人はどこに

グレゴリー湖西岸のP紅茶農園から対岸を望む。東側の対岸の奥の山々まで農園の敷地だ。さらに西岸から北西方向も見渡す限りP紅茶農園である

 12月9日。ヌワラ・エリアで長逗留したゲストハウスは、丘陵地帯の高台にあり見渡す限りの紅茶畑に囲まれていた。宿の近くのメインロード脇にP紅茶農園という案内板が出ていた。案内板によると診療所、支配人ハウスがあるらしい。とりあえず案内板の方向に向かって坂道を上りだした。途中にインターナショナル・スクールがあった。丘陵地帯の高台にはコロニアル様式の豪華な別荘や屋敷が点在している。そうした富裕層の子弟が通っているようだ。

 歩いて20分ほどで丘の頂上に着いたが、相変わらず紅茶畑が広がるだけだ。ところどころに古びた石柱があり、P農園(P Estate)第6区(No.6 Division)XXXとある。約1時間ぶらぶら歩いたが、どこまでも第6区である。その広大な第6区を管理するため数ヘクタール毎にXXXと管理番号を振ってあるようだ。近くの作業中の男に診療所と支配人ハウスの所在地を聞くと「あの山の向こう」と東の方向を指さした。とても徒歩で行ける距離ではないと断念。ネットでチェックするとP紅茶農園の面積は700ヘクタールとあった。地平線の彼方までP紅茶農園なのだ。

 どこかでP紅茶農園について聞いてみたいと考え、グーグルマップをチェックすると数キロ先のグレゴリー湖畔に面する高台に聳える豪壮な建物のあたりにP紅茶農園とあった。1時間近くかけて豪壮な建物に到着したが、19世紀創業の名門ホテルだった。グーグルマップを仔細に確認すると、高台から数百メートル先がP紅茶農園だ。紅茶畑の中に柵で囲われた大きな邸宅が見えた。数人の男が作業していたのでマネージャーはどこにいるか聞くと、十数キロ離れた場所という。事務所と製茶工場がある本部(headquarter)に出かけているらしい。大きな邸宅はP紅茶農園の取引先など賓客が逗留する迎賓館(VIP Guest House)とのこと。本部訪問は後日にして、丘を降りてグレゴリー湖畔を散策することにした。

P紅茶農園のタミル人部落

 グレゴリー湖畔を散策して迎賓館の対岸に位置する地域に来たが、相変わらずP紅茶農園の敷地内である。瀟洒な別荘やプチホテルが並ぶ地域を通り過ぎると雰囲気が一変。紅茶畑で覆われた丘陵の東斜面に150戸くらいのバラック小屋が雑然と建っていた。どの家も洗濯物を外に干しており子供たちが狭い路地で遊んでいた。少し上ってゆくと小さなヒンズーの祠があった。さらに行くと壁に絵が描かれた建物があった。

 小さな男の子を抱いて女の子の手を引いた若い女性と出会った。彼女が誰何(すいか)するように何か用ですか? と聞いてきたので「P紅茶農園に興味があるので湖の対岸から歩いてきました」と答えると案内してくれるという。16歳の少女Bさんは近くの家に住んでおり幼い子供たちは弟妹とのこと。スリランカでは早婚で子供を産むので彼女も結婚しているのかと思ったが、筆者の誤解であった。彼女自身は12年生で来年全国統一高校入学資格試験(Oレベル試験)を受験する予定と自己紹介した。注)Bさんは本編第5回にて紹介した『刻苦勉励で運命を切り開く少女』である。

 この部落は19世紀末から20世紀初頭に、P紅茶農園で働くためにインドから移住してきた人々が拓いたものだという。いわゆるヒンズー教徒タミル人であり、現在でも部落の住人の大半はP紅茶農園で働いている。労働者不足を補うために英国人植民者がインドから連れてきた労働者の子孫なのだ。スリランカ南部にはそうした歴史的背景を持つタミル人が多いことは、キャンディーでも聞いた。

 Bさんに案内されて絵の描かれた建物に入った。ここは昼間茶摘み作業に出かけている女性の子供たちを預かる託児所(nursery)とのこと。P紅茶農園が建てて運営費用も農園が出しているという。8人くらいの幼児がおり1人の女性が面倒を見ていた。

グレゴリー湖西岸のタミル人労働者部落に建てられたP紅茶農園の保育園。保母さんが1人で手が足りないので年長の少女がよちよち歩きの幼児の面倒を見ていた。それぞれの部落毎にこのような保育園がある

 Bさんによると農園の診療所は薬代も含めて完全に無料なので部落の人間はよほどの重病でない限り農園の診療所に行くという。P紅茶農園の本部近くにある公立学校も元々はP紅茶農園が労働者の子供のために90年くらい前に創設した小学校だったとのこと。


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