2024年5月14日(火)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年2月25日

月給手取り1万円で一家8人どうやって暮らしているのか?

 Bさんの誘いで彼女の家でミルクティーを頂きながら話を聞くことになった。トタン屋根と土壁に土間という質素な作りで二間しかない。お母さんが淹れたミルクティーをすすりながら聞いたところ、彼女と弟妹併せて4人の子供と父親・母親と6人家族。そして隣の小屋に父親の両親。つまり8人家族。

 P紅茶農園で働いている父親の月給は手取りでなんと1万円(本編では当時の為替レート1円=2ルピーで換算して円貨で表記する)、それに紅茶と小麦粉の現物支給があるとのこと。父親はどうも会社に借金がある様子だった。おそらく父親の両親や母親は農園の軽作業や茶摘みなどアルバイトして多少の現金収入は得ていると想像するが、それにしても貧しい暮らしぶりだ。

 Bさんの母方の祖母はバスで数時間の村に住んでおり重病で死期が迫っているが、バス代節約のため見舞いに行かないという。【注)バス代は往復で500円弱である】 そんな重い話を聞いて放浪ジジイはなんと言って慰めるべきか言葉が見つからなかった。

 Bさんは日本が豊かな国で日本の若い人がつくづく羨ましいと心情を吐露した。放浪ジジイは「60年前には日本も貧しくて地方の農村では15歳で学校を終えると半分くらいの子供は家族と分かれて仕事のある東京や大阪に向かった。でもそれから20年もしないうちに経済が成長して15歳の子供の90%以上は高校に進学するようになった。スリランカも必ず変わるよ」と苦し紛れのお為ごかしを言ったが、Bさんはあまり真に受けていない様子だった。

高台にあるP紅茶農園の製茶工場と事務棟

お茶畑を世界市場とつなぐP紅茶農園の製茶工場

 12月10日。P紅茶農園の本部所在地は宿から路線バスで約15分のヌワラ・エリアのバスターミナルまで行って、そこから乗り換えて西に向かう路線バスで約20分のところにあった。それほど紅茶農園が広大なのだ。製茶工場は観光名所らしく観光バスやマイクロバスが駐車場に並んでいた。

 製茶工場の受入れターミナルでは7つの管理区(Division)から続々とトラックで運び込まれる原料茶が検量される。1日に8~10トン。正規職員だけで550人。茶摘み女も含めて700ヘクタールに1500家族が住んでいる。紅茶プランテーションは巨大産業だ。

 製茶工場の見学が終わるとラウンジで試飲。係員の説明では茶摘み作業の賃金がノルマの18キロを達成して1日500円。どこで聞いても茶摘み賃金は18キロで500円だったので相場のようだ。稀にノルマ20キロで500円というケースもあったが。

 そして紅茶の価格は現在ではコロンボ市場でのオークションで決まるという。ラウンジにはドイツ、日本、豪州などの取引先大企業が紹介されていた。日本の大手飲料メーカーも様々な技術支援や農園労働者子弟教育支援を行っているようだ。これら先進国大企業は国際フェアトレード基準の観点から自然環境保護だけでなく農園労働者家族の生活環境まで配慮して様々な活動をしていることが紹介されていた。

p紅茶農園の見学者ラウンジに貼られたポスター。p紅茶農園と取引先の外国銀行が共同で実施ている農園労働者子女の教育支援プログラムを紹介している。隣には日本の大手飲料メーカーの環境保護支援のポスター

製茶工場周辺の公立学校とヒンズー教の祠

 P紅茶農園の製茶工場と本部事務所のまわりはまるでP紅茶農園のミニ城下町だ。農園が建てた小学校の敷地には現在は木造三階建てのタミル人男女共学公立学校が建っていた。女性校長と教頭に話を聞くと1972年に運営が州政府に移管されて9年制公立学校となった。この学区では農園で働くタミル人の子弟が大半なのでタミル語を第一言語としてタミル語で各教科を教え、第二言語としてシンハラ語を教える。

 戦前から1972年まではP紅茶農園が運営する私立学校だった。当時の平屋の学舎は3階建て校舎の裏にあり現在は物置や職員住宅となっていた。

 公立学校の近くにヒンズー教の祠があった。氷雨の滴る祠の軒下で茶摘み女たちが昼食をとっていた。場所が狭いので数人は立っている。ナンにカレー汁をつけただけの質素な食事を濡れた衣服のままで食べている。

ヒンズー教の祠の軒下で昼食をとる茶摘み女たち。氷雨を気にせず食事をする逞しさに何か彼女たちの矜持のようなものを感じた。働いて子供を育て生きてゆくという潔い生き様

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