1384(元中元)年、今川範国の求めに応じて来訪した観阿弥は、浅間神社の境内、舞殿で猿楽を奉納する。スター一座の興行に駿府はさぞ沸いたことだろう。
浅間神社はいまも、修築や再建を重ねつつ、古からの構造をそのまま伝承する。総門、楼門、大拝殿の順に並び、さらにその奥が本殿となるのだが、これらの建物はすべて左右対称に造られ、中心線を境に神部神社と浅間神社が棲み分ける構造になっている。
楼門と大拝殿の間、周囲を回廊によって囲まれた中央に建つのが今回の舞台、舞殿である。他の建造物は総漆塗、極彩色の装飾が施されるきらびやかな中、そこだけ中世が甦ったかのような質実な建築だ。
案内してくださった権禰宜の宇佐美洋二さんによれば、
「現在の建築はすべて江戸後期に再建されたもの。舞殿も徳川の世を寿ぐ彫刻で飾られてはいますが、10本ある柱の他、構造は観阿弥のころと同じです」
観阿弥の演能は5月4日、流鏑馬神事の前日に行われた。だが、わずか15日後に当地で客死したと、世阿弥は『風姿花伝』に記す。しかも、同じ日、観阿弥を招いた今川範国が死去する。2人に一体何があったのか、どこにも書き遺されていないと、宇佐美氏は話す。あたかも幻を観たような劇的な結末は、観阿弥によって演出されたかのようだ。
家康の
心の拠り所だった
応仁の乱で衰退した猿楽は、豊臣秀吉がこれに夢中になったことから息を吹き返す。家康もまた猿楽を愛したことから、幕府の儀礼の場で演じられる式楽となってゆく。
家康が人質として駿府に入ったのは8歳の時だった。人質とはいえ、近習が従ってきており、街中を動き回るのも可能だった。14歳の折、ここ浅間神社で元服を果たし、今川義元から一字を与えられて「元信」と名乗る。翌年には義元の姪を娶っていることから察しても、今川家としては、有力な配下として育てたい意図があったと思われ、家康にとって駿府の少年時代は、けっして辛いばかりではなかったろう。中でも楽しみの一つが猿楽ではなかったか。
桶狭間で敗れた今川家は、武田信玄や三河に戻った家康から侵攻を受けて衰亡してゆく。1582(天正10)年、信長とともに武田家を滅ぼした家康は、浜松から駿府に拠点を移し、城下町を整備し、ここ浅間神社を復興している。その頃に作成された境内図がいまに残されている。
天下を手中にし、将軍職を秀忠に譲った家康は、この地に巨大な隠居城を造って天下を睥睨した。大坂の豊臣家を滅ぼす策をめぐらせつつ、大好きな鷹狩りを楽しむ日々を送った。温暖なうえに、豊富な魚介をもたらす大海が目の前にあり、山々から下る多数の河川によって作られた扇状地は、豊かな水で美味なる米を育てた。家康が最後に帰ってきたのはこの駿府だったのだ。
取材の帰路、門前町で静岡おでんを食べた。いまでは全国に知られる名物グルメも、かつては駄菓子屋で子どもが食べるおやつだったという。そんな小さな店で、熱燗のアテに素朴なおでん串を4本ほど食べた。魚介の味わいが深く、名物に恥じぬ美味しさだった。なんだか、少年が出世して天下人になったようだと、可笑しかった。