2024年11月23日(土)

偉人の愛した一室

2024年5月26日

 1384(元中元)年、今川範国の求めに応じて来訪した観阿弥は、浅間神社の境内、舞殿で猿楽を奉納する。スター一座の興行に駿府はさぞ沸いたことだろう。

 浅間神社はいまも、修築や再建を重ねつつ、古からの構造をそのまま伝承する。総門、楼門、大拝殿の順に並び、さらにその奥が本殿となるのだが、これらの建物はすべて左右対称に造られ、中心線を境に神部神社と浅間神社が棲み分ける構造になっている。

楼門や回廊にも漆が贅沢に使われており艶やかさに目を奪われる。塗りたての漆は鏡のように景色を反射するという。楼門には黄金に輝く龍など、精緻な彫刻が施されており、下層部両脇には随神像が安置されている(WEDGE以下同)

 楼門と大拝殿の間、周囲を回廊によって囲まれた中央に建つのが今回の舞台、舞殿である。他の建造物は総漆塗、極彩色の装飾が施されるきらびやかな中、そこだけ中世が甦ったかのような質実な建築だ。

社殿群で唯一、素木造りの舞殿。縁起の良い「獏」や「飛龍」の他、「波」といった立川流彫刻が美しい

 案内してくださった権禰宜の宇佐美洋二さんによれば、

「現在の建築はすべて江戸後期に再建されたもの。舞殿も徳川の世を寿ぐ彫刻で飾られてはいますが、10本ある柱の他、構造は観阿弥のころと同じです」

 観阿弥の演能は5月4日、流鏑馬神事の前日に行われた。だが、わずか15日後に当地で客死したと、世阿弥は『風姿花伝』に記す。しかも、同じ日、観阿弥を招いた今川範国が死去する。2人に一体何があったのか、どこにも書き遺されていないと、宇佐美氏は話す。あたかも幻を観たような劇的な結末は、観阿弥によって演出されたかのようだ。

当神社で生涯最後の猿楽を舞ったことが記された顕彰碑。奉納者は元NHKアナウンサーの山川静夫氏

家康の
心の拠り所だった

 応仁の乱で衰退した猿楽は、豊臣秀吉がこれに夢中になったことから息を吹き返す。家康もまた猿楽を愛したことから、幕府の儀礼の場で演じられる式楽となってゆく。

 家康が人質として駿府に入ったのは8歳の時だった。人質とはいえ、近習が従ってきており、街中を動き回るのも可能だった。14歳の折、ここ浅間神社で元服を果たし、今川義元から一字を与えられて「元信」と名乗る。翌年には義元の姪を娶っていることから察しても、今川家としては、有力な配下として育てたい意図があったと思われ、家康にとって駿府の少年時代は、けっして辛いばかりではなかったろう。中でも楽しみの一つが猿楽ではなかったか。

 桶狭間で敗れた今川家は、武田信玄や三河に戻った家康から侵攻を受けて衰亡してゆく。1582(天正10)年、信長とともに武田家を滅ぼした家康は、浜松から駿府に拠点を移し、城下町を整備し、ここ浅間神社を復興している。その頃に作成された境内図がいまに残されている。

江戸初期に家康が浅間神社に奉納した馬を模して左甚五郎に造らせたといわれる木彫りの神馬がいまに残る 写真を拡大

 天下を手中にし、将軍職を秀忠に譲った家康は、この地に巨大な隠居城を造って天下を睥睨した。大坂の豊臣家を滅ぼす策をめぐらせつつ、大好きな鷹狩りを楽しむ日々を送った。温暖なうえに、豊富な魚介をもたらす大海が目の前にあり、山々から下る多数の河川によって作られた扇状地は、豊かな水で美味なる米を育てた。家康が最後に帰ってきたのはこの駿府だったのだ。

 取材の帰路、門前町で静岡おでんを食べた。いまでは全国に知られる名物グルメも、かつては駄菓子屋で子どもが食べるおやつだったという。そんな小さな店で、熱燗のアテに素朴なおでん串を4本ほど食べた。魚介の味わいが深く、名物に恥じぬ美味しさだった。なんだか、少年が出世して天下人になったようだと、可笑しかった。

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Wedge 2024年6月号より
平成全史
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「平成全史」特集後編では、事件、災害、雇用、教育など、主に社会問題について考える。「失われたX年」と、過去の栄光を取り戻そうとするのではなく、令和の時代にどのようなビジョンを描き、実行していくのか?それは、今を生きるわれわれ自身にかかっている。


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