「同意なき買収」第1号を
成功させたニデック
だが、新指針を利用した「プロ」はいた。自社成長だけでなくM&Aを活用してきたニデック(旧日本電産)だ。23年7月、優れた工作機械メーカーとして知られるTAKISAWAに、TOB(公開市場買い付け)を仕掛けた。TAKISAWA経営陣から買収同意をとりつけることなく、市場株価の2倍の買取価格を提示した。
2倍もの買取価格についてニデック関係者は「指針を失敗させられなかった」と述べている。指針公開から1カ月以上も前のTOBだったにもかかわらず、である。
買収劇に先立ち、ニデックは22年に資本業務提携を求めていた。その時点では相手にしなかったTAKISAWAはニデックを上回る買取価格での対抗TOBを仕掛ける救済者(白馬の騎士)を見つけ、打診した。しかし結局は引き受けてもらえず、MBO(経営陣による買収)への資金の出し手もいなかった。
救済を引き受けてもらえなかったのは「指針」公表の直後だったことも響いているだろうか。買収を受け入れた記者会見でTAKISAWAの原田一八社長は「指針が出ている以上は受け入れざるを得なかった」と言及している。昨年11月に買収が完了し、ニデック傘下に入った今もTAKISAWAの経営陣はほとんど変わっていない。水面下でニデックが当面の地位確約をしたのだろうと見られている。
ニデックの創業者、永守重信会長も「指針が追い風になった」と評価する。指針後の同意なき買収の第1号を成功させることで、次の、またその次の買収をスムーズに仕掛けたいとの思惑があったのだろう。追い風になったというより、追い風に仕立てたという方が実態に近いのかもしれない。現に、指針が出たこと自体、政官界に影響力のある永守氏の構想の一部だったのではないかとみる人は少なくない。
日本での同意なき買収の最大の失敗例は、06年の王子製紙による北越製紙の買収劇だ。経産省の旧指針が出た直後の時期に、野村証券をアドバイザーに仕掛けた。関係者にすれば、「機は熟した」買収劇だったのだろう。
しかし、買収される側の北越製紙は労働組合を含む会社ぐるみの反対闘争を繰り広げた。主力工場のある「地元」新潟県での激しい反発もあって頓挫した。当時、日本経済新聞社にいた私のところ(担当でもないのに)にまで、北越側の社外取締役から繰り返し事情説明があったから、そんな反対の「熱気」はよく覚えている。買収頓挫の余波は、王子製紙ばかりかアドバイザー役の野村証券にまで及び、担当者は更迭された。
日本製鉄によるUSスチールの買収が、労組や地元の反対でストップしているのと構図は似ている。もちろんUSスチール経営陣は買収に同意している。だが、労組が他の鉄鋼メーカーの労働者との同一組合であるため、他社の意向が働きやすい。大統領選挙の重要州であるペンシルベニア州のピッツバーグに本社があり、大統領選の争点になりかけたことが、買収がストップした最大の理由だろう。
このUSスチールを巡る買収劇や過去の日本での事例は、手順を間違えると被買収企業の取締役会が同意していた場合ですら、買収が失敗しかねないことを示している。買収の「プロ」であるニデックが「スムーズ」な決着にこだわった理由がここにある。
同意なき買収の形でTOBを不意打ちで仕掛け、その後に交渉して同意のうえでの買収に仕立てる。双方の経営陣と株主以外の従業員や取引先など、いわゆるステークホルダーを買収に介入させないための手法が確立した。買収を受け入れるかどうかの決定権は取締役会でなく、株主にあると明確になった。もちろん、被買収企業の経営陣に事前に持ち掛ければ、買収防衛策を構築する時間を与えかねない。そういう面もあるから「同意なき買収」を活用したいのだろう。
実は、株主権の確立は、05年の旧指針の策定と06年に商法の会社に関する部分が会社法へ切り替わったことにより、すでに法的には済んでいた。だが、当時は敵対的買収への嫌悪感がまだまだ日本社会に強かった。05年にライブドアが仕掛けたニッポン放送株取得によるフジテレビ買収劇、そして王子製紙の北越製紙買収の失敗が代表例だ。
だから、会社法の改正を主導した東京大学の神田秀樹教授は当時、「新会社法は買収防衛策を多数準備した」と強調していた。しかし、新会社法は買収防衛策を株主総会で決議するよう定めた。そのため、ポイズンピル(既存株主に事前に新株を時価より安く取得できる新株予約権を発行しておくことにより、好ましくない買収者の持株比率を低下させる)など決定的な買収防衛策も株主総会で決議する必要があり、新規の防衛策の導入はなくなっていった。