あるいは、「劇場政治」というと政治家のパフォーマンスに観客=有権者が黄色い歓声を飛ばす衆愚政治といった悪い意味になるわけですが、これは政治を担うものは本来みな「演者」であるべきだという、西洋的な価値観ですよね。それに対して福嶋さんは関東大震災後の川端康成や戦後の三島由紀夫の小説から、「観客」なら観客なりのモラルや美学というものを、日本人は研磨してきたのではないかと示唆している。そういう点でも文学と社会とをつないで、今後の日本論のベースになる作品だと思います。
本書では日本文化史の泰斗だった林屋辰三郎への言及が目立ちますが、おそらく福嶋さんはスケールの大きな歴史像を個人として打ち立てることがしばしばだった京都大学の学統と、文藝批評の系譜というものの2つを意識されている気がします。たまたま、両者それぞれの代表ともいえる内藤湖南『支那論』と、江藤淳『近代以前』もこの秋創刊の文春学藝ライブラリーに入りました。先行きが見えない時代だからこそ、新旧の著作を素材に大きな歴史を語る文化が、読書界にも根づいたらいいなと思いますね。
2冊目に挙げたいのは、やはり今年の夏に出たスタジオジブリ代表取締役プロデューサーの鈴木敏夫さんの自伝『風に吹かれて』(中央公論新社)。ロッキング・オンの渋谷陽一さんがインタビュアーとなった回想録の形式で、もちろんジブリの結成以前も含めた宮崎駿、高畑勲といった映画人との舞台裏の秘話が満載です。
先ほどの福嶋さんの批評は、宮崎作品のトレードマークだった「空を飛ぶことの快楽」がある時期から描かれなくなる点に注目していたのですが、実は鈴木さんも『もののけ姫』を、あえて飛行という得意技を封印した宮崎駿にとっての挑戦だったと回顧している。作り手と批評家のあいだは議論が食い違ってしまうこともしばしばなわけですが、ぴたっと一致することもあるんだなと感じました。たとえばそういった観点を頭に入れてみると、今年公開された『風立ちぬ』や『かぐや姫の物語』の見え方も変わってきますよね。
その一方で、実はジブリ設立をそもそも意識する以前、名古屋での少年時代から慶応義塾大学時代までの回想が、私にはより一層印象に残ったんです。本書でも振り返られているとおり、ジブリが国民映画というか、「ジブリのアニメならみんな見に行く」という状態になるのは『魔女の宅急便』(1989年)からなので、その意味でジブリアニメは「平成」の日本文化ということになる。でも、実際には「昭和」を知らないとジブリってわからないんじゃないか。90年代以降の日本のサブカルチャーのなかで、一番濃厚に昭和の感覚を湛えていたのがジブリの作品群で、だからこそたとえば若者限定ではなくて、全国民大の文化になったんじゃないかという気がずっとしていたんですね。
それこそ『風立ちぬ』はアニメで描く昭和史でしたけど、自分なんか主題のはずの飛行機よりも、蒸気機関車が爆走して、一等車と二等車のあいだとか、お嬢さんと女中さんのあいだに格差があって……というところに目が行っちゃった。ああ、「木下惠介の世界」だな、高度成長以前の、汽車では結ばれつつも圧倒的に都市と農村が別の空間だった頃の日本文化だよなって。もちろん自分は生まれていないから、それこそ映画を通してしか知らないんですけど、鈴木さんが回想する名古屋時代で描かれているのも、小学校の時点でお金持ち組と、貧乏な家のグループとがはっきり分かれていたと。そして地元が嫌で嫌で、大学では何としても東京へ出たかったと。それで、お父さまが繊維関係の大手から独立して自前の家内工場を持った方だそうなのですが、大企業時代の社長一族が慶応卒だったと聞かされていて、それで自分が慶応に行ってあげようと思ったと。