2024年8月19日(月)

BBC News

2024年8月19日

ヒュー・スコフィールド、BBCパリ特派員

フランス映画の黄金期を彩った男性スーパースターの最後の一人、アラン・ドロンさんが亡くなった。88歳だった(以下敬称略)。

今年1月にも彼の名前は、フランス各紙の一面を飾った。しかしそれは、病気や新作映画の話題ではなかった。晩年の再婚に関する記事でもなかった。

その人生の終幕は悲劇的だった。フランスの人たちは、怖いもの見たさにかられ、マスコミを通じて、ドロン家の崩壊を見つめ続けた。

ドロンの子供3人は、家族としての思い出と父親の愛情の片鱗(へんりん)を求めて、互いに争っていた。

「死期を悟った鳥は姿を隠すものだ。しかし、巨大な獣は、映写機のこうこうたる光を浴びながら死んでいく」。これは、ドロン家について仏紙ル・モンドが書いた長文記事の出だしだ。

ドロン家の物語には、ギリシャ悲劇の要素がそろっていたと、ル・モンドは書いた。家族は仲たがいして対立している。かつて華やかな祝宴の場だった一族の屋敷は、今では崩れかけている。そして何より、この物語の苦悩する主人公は、波乱万丈だった自分の過去の因果に苦しめられているのだと。

フランスの人たちにとって、ドロンは映画界きっての「巨大な獣」だった。1960年代の目まぐるしい喧噪(けんそう)のなか、欧州各地で浮名を流し、大勢を魅了し、そして「山猫」や「若者のすべて」などのヒット映画に出演し続けた。

「パリ・マッチ」などのゴシップ誌を通じて、フランスの人たちはドロンの精力的な仕事ぶりだけでなく、同じくらい精力的な恋愛関係のあれやこれやも追いかけ続けた。

なのでフランスの世間はすでに、ドロンに子供が3人いることを知っていた。2人の女性の間に息子2人と娘が1人。そしてさらに、認知しなかった3人目の息子(故人)がいることも。

しかし、ドロンの晩年になってフランスの世間は、一家が深く抱えこんだトラウマを知ることになった。子供たちが次々とマスコミに登場してはお互いを中傷し、非難し、告訴し合ったからだ。互いをひそかに録音していたことも発覚した。

最初は、59歳のアントニー・ドロンだった。俳優ナタリー・ドロンの息子は「パリ・マッチ」のインタビューで、異母妹アヌーシュカが、父親の認知力テストの結果を隠していると述べ、妹は「うそをついて」事実を「ねじ曲げている」と非難した。

33歳のアヌーシュカは、オランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンの娘だ。そしてそのアヌーシュカは弁護士を通じて、異母兄に反撃した。いわく、アントニーは「父に、あなたはもうぼけているんだと執拗(しつよう)に言い続け」ており、「息子のその攻撃性に、父はもう耐えられない」のだと。

兄と妹はその後もフランスのテレビに次々と出演し、お互いを罵倒し続けた。そこへきて今度は29歳の息子、アラン=ファビアンがインスタグラムで参入し、異母兄アントニーの側に立った。さらに、姉アヌーシュカが父親に出まかせを吹き込んでいる様子(だと本人は主張する)秘密の録音を掲載した。

きょうだいが直近で法的に対立したのは、2019年に脳卒中になったドロンの治療法をめぐってのことだった。深刻な病状について、フランス・メディアは病名を伝えていない。今年1月に医師がドロンを診察したが、その診断に子供たちはただちに異論を唱えた。

血縁同士のこうしたいさかいに加えて、別の女性が原告となって背景を漂っていた。66歳の日本人女性ヒロミ・ロランだ。彼女がドロンの世話係だったのか、それとも恋人で伴侶だったのかは、人によって意見が異なる。子供たちはロランに対しては珍しく団結し、昨年の時点で父親のそばから彼女を追い出している。しかし、ロランは反対に、子供たちが父親に必要な薬を与えず、ドロンの命を脅かしていると逆に提訴した。

一連の出来事はすべて、ドロンが築いた邸宅を舞台にしている。パリから南東約120キロにあるドゥシーの、木々に囲まれた屋敷で、ドロンは亡くなるまで晩年を過ごした。息子アラン=ファビアンが同居し、ほかの子供たちも時折ここで父のもとを訪れていた。

世間は屋敷の様子をうかがうことはできなかったが、アラン=ファビアンによると最近では見る影もなくなっていた。「あちこちが次々と壊れるし、電気も壊れている」のだと彼は話していた。

ル・モンド記事をはじめとしてフランスでは大勢が、この悲劇は俳優アラン・ドロン自身の過去に深く根差すものだと指摘している。

ドロンは、不安定で荒れた幼年期と思春期を過ごした。その影響で、息子たちと関係が築けなかったのだという意見もある。

1935年にパリ郊外で生まれ、4歳で両親が離婚した後は里親家庭で育てられた。

少年期は反抗的で素行不良だった。海軍に入り、当時の仏領インドシナ(現ヴェトナム)へ派兵されたが、ジープを盗み軍法会議にかけられた。1950年代後半にパリに戻ると、売春婦やギャングに囲まれて暮らした。映画界に入れたのは、その外見のおかげだった。

ル・モンド紙はこう書いている。「彼のエゴは巨大で、そしてそれと同じくらいに不安定だった。おそらくそのせいで彼は自分の息子たちを、将来的なライバルとみなしたのだろうし、そのため卵の段階で叩きつぶすしかないと思ったのだろう」と。

ドロンが父親として息子2人に非常に厳しく接したことは、多数記録されている。そして2人とも後に、麻薬や銃や法律との様々な問題に巻き込まれていく。

しかし、娘のアヌーシュカは別だった。2008年の時点でドロンは彼女について、「あれほど『愛している』と繰り返し伝えた女性は彼女だけだ」と話している。

アメリカのロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」のスターで、ドイツ出身のニコとの間にも息子がいる。1962年に生まれたアリ・ブーローニュも、苦しんだ。

ドロンはついに、アリを認知しなかった。しかし、ドロンの母親はアリのことを確かにドロンの子供だと信じ、その養育に協力した。アリは昨年、パリで死亡。薬物の過剰摂取が原因とみられる。

ドロンは遺書で、遺産の半分をアヌーシュカに譲り、残り半分を息子2人が折半するように遺言した。

しかし、子供たちが争っているのは遺産の額ではないというのが、大方の意見のようだ。

それは愛情をめぐる争い、お互いへの対抗意識のための争い、過去をめぐる争いなのだろう。

(英語記事 Alain Delon: Tragic finale as film great's family is torn apart

提供元:https://www.bbc.com/japanese/articles/c6235wr4z97o


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