2024年12月15日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年8月18日

(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空券含む〉)

 マニラ~グアム~アカプルコはスペイン新大陸経営のドル箱航路だった

 世界中にチャイナタウンがあるが、フィリピンで見聞した中華街と華僑ビジネスについて記したい。

 世界最古のチャイナタウンと言われているのがマニラ中華街。スペイン人のマニラ港防衛拠点であった城塞都市イントラムロスの対岸に位置するビノンド地区。ここには大陸と交易する中国商人が以前から居住していたが、1592年スペインの総督がカトリックに改宗した中国人居住区として正式に指定した。

 16世紀から約250年間、マニラはアジア~新大陸スペイン領~スペイン本国を結ぶ貿易航路の重要拠点であった。アジア各地~マニラ~グアム~アカプルコ~陸路メキシコ横断~ベラクルス~スペイン本国が当時最も安全で効率的な交易ルートだったようだ。

 新大陸の銀がアカプルコ~マニラ~中国へ流れ、中国からは絹・陶磁器・工芸品などが新大陸さらにスペイン本国へ送られた。同様に東南アジアの香料、インドの綿織物もこのルートで新大陸・スペインに送られた。中国各地からマニラへジャンク船が運んだ中国産品を売買したのがマニラの華僑であった。

雑然としたマニラの中華街は中国的友好戦略のシンボルか

マニラ中華街の大門。『中国城』と書かれている城とは都市の意味を意味する

 2023年7月。マニラ中華街を歩いた。横浜中華街よりもかなり広い地域に銀行・保険・運輸・貿易などの華僑系企業、中華食材・漢方医薬・貴金属宝飾・機械・雑貨などの卸問屋・商店が雑居。そして中華料理屋も。フィリピン経済は華僑財閥が支配しているが、マニラ中華街には財閥から屋台のオヤジまで大小さまざまな華僑が集まっていた。

中国が建設した中国フィリピン友好橋。手前は友好記念のオブジェ

 政府官公庁のあるイントラムロスと、中華街のあるビノンド地区の間を流れるパッシグ川には“フィリピン・中国友好橋”が、中国によりほぼ完成していた。中国と微妙な蜜月関係を維持していたドゥテルテ政権時代の産物だ。その後、南シナ海での領海を巡ってマルコス・ジュニア大統領は中国との対決姿勢を鮮明にした。フィリピンの華僑は当然のことながら大陸との関係を上手く維持していることだろう。

セブ島のチャイニーズ・ビレッジ“ビバリーヒルズ”

 1521年のマゼランの来航以来セブ島は、スペイン人の最初の活動拠点となった。セブ港に隣接するサンペドロ要塞には初代総督レガスピの銅像がセブ・シティーを睥睨している。スペイン人植民者と同時に中国商人も集まってきた。現在セブ・シティーは人口100万人でフィリピン中部のビサヤ諸島の経済の中心である。そして経済を支配しているのは華僑である。

 2022年7月。投宿していたセブ・シティーの下町から路線バスを3回乗り換えて市街地を抜け北の郊外まで約1時間。丘陵地帯の麓のバス停からさらに徒歩約30分で高台にあるビバリーヒルズの入口のゲートへ。

 ビバリーヒルズとは華僑の富裕層の豪邸が緑に覆われた丘陵地帯にポツンポツンと建っている超高級住宅エリアである。一区画が最低でも数ヘクタールで数十ヘクタールの敷地の邸宅がざらにある。

 ゲートから南の方向にセブ・シティーの中心部とセブ港が望見できる。下界とはジャングルの緩衝地帯と丘陵により隔絶されており、大勢のガードマンで固められた入口ゲート以外からビバリーヒルズに進入することはできない。

 ビバリーヒルズの広大な敷地内には道教、仏教などの寺院や展望台もある。しかしセキュリティー確保のためゲートからビバリーヒルズ内部に進入できるのは事前登録された乗用車、観光バス、タクシーのみ。観光バスは寺院・展望台など観光名所のみ短時間の停車が許可される。タクシーは入口で登録して予定退場時刻を申告する。

 徒歩での入場は規則により不可とのこと。てくてく炎天下を歩いてきた放浪ジジイのためにガードマンが近くのタクシー会社から車を呼んでくれた。タクシー代がバカにならないので道教寺院を少し覗いて早々にビバリーヒルズから退散した。貧富の格差を肌身で感じた一日だった。

ネグロス島のドゥマゲッティの中華街の現在

 3月26日。ネグロス島東部のドゥマゲティ市は人口13万人の学園リゾート都市。郊外の中国人共同墓地に墓参に来ていた老人にドゥマゲティの中華街について聞いた。戦後の混乱期にドゥマゲティに移住してきた中国人の多くはコロン・ストリートに店を開いて中華街が形成されたとのこと。

 実際にコロン・ストリートを歩くとほとんど漢字の看板がない。中国人らしい人間が店番をしている古い金物屋で尋ねると奥から85歳の老婆が出てきた。中国語は忘れたという。訥々と英語で語るには福建省の厦門(アモイ)から戦後の混乱期に親戚を頼って夫婦でドゥマゲティに移住して数年後に現在の金物屋を開いたという。

 当時は大陸から逃げてきた中国人がコロン・ストリートに住んで商売をしていたが、その後は現在の市場やデパートがある中心街に引っ越したとのこと。確かにコロン・ストリートには金物屋以外に往時の中華街を彷彿させるのは、古びた漢字の看板が残っている数軒の廃屋だけだった。

 中心街を歩いても漢字の看板がほとんど見当たらない。フィリピンには中国系フィリピン人(チノイと呼ばれる)は多いが、マニラのように歴然とした中華街はあまり見かけない。ドゥマゲティ中心街には1969年創設の中国人キリスト教会や、1928年創立の聖十字中国中学があり中国系フィリピン人が居住しているが、60~70年の間に戦後移住してきた中国人はフィリピン社会に同化したのであろう。

イロイロ市の活況を呈する中華街

イロイロ市の中華街の大門

 4月4日。イロイロ市は人口約40万人でパナイ島の中心港湾都市。港湾近くの一帯が中華街だ。大きな中華門があり漢字の看板が並ぶ中華街のメインストリートは活気に溢れている。中心部に中華学校、中華商工会議所、道教の廟がある典型的な中華街だ。

 メインストリート近くの約200室の中堅ホテルに投宿。華僑のオーナー一族はホテルのほかにポンプ等の機械の卸問屋、飲料水供給事業を経営。初代は金物屋からスタートして事業を拡大した。半日ほど中華街を歩いてみた。

イロイロ市中華街の老舗の漢方薬卸問屋

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