2024年12月2日(月)

オトナの教養 週末の一冊

2024年8月10日

 1980年代、ヒマラヤの高所登山で先鋭的な登山家たちが相次いで亡くなった。「安全な山登りを究めるのが自分の役割ではないか」。そんな思いから高所登山での運動生理学を研究してきた鹿屋体育大学名誉教授、山本正嘉さん(66歳)がこの5月、低い山へと対象を広げた本『登山と身体の科学』を講談社のブルーバックスから発刊した。

標高の低い里山への登山が健康寿命を長くする(佐賀県の金立水曜登山会提供)

 歳月とともに山本さんのキーワードは「安全」から「健康」、「長寿」へと移っていった。登山客はどうしても槍や穂高、北岳などのブランド的な山にひかれがちだが、山本さんが勧めるのは日本ならどこにでもある里山だ。半日程度でいいから低い山に足繁く通えば、高齢になってもかくしゃくとする。「その機運が広がれば、日本中が生き生きとしてくる」と唱える。(以下一問一答)

自分なりの山登りへの貢献

やまもと・まさよし 1957年横須賀市生まれ。東京大学大学院修了。博士(教育学)。鹿屋体育大学名教授、および同大学のスポーツトレーニング教育研究センター長を経て、現在名誉教授。専門は運動生理学とトレーニング学。2つの体育大学で30年以上にわたり、スポーツ選手の競技力の向上や一般人の健康増進をはかるための研究と教育を続けてきた。主著の『登山の運動生理学百科』(東京新聞出版局)は韓国、台湾で翻訳されている。

 ――山本さんは20代のころインドヒマラヤの怪峰と呼ばれるシヴリン北稜や南米のアコンカグア南壁などで厳しい登山をされました。入学から2年間、東京大学の教養学部では理系だったのに、なぜ教育学部の体育学科に進学されたのですか。

 本音を言えば、山登りを続けるための言い訳です。僕自身、山が第一でしたが、大学院にいたころ結婚もして稼がなくちゃならなくなりました。

 せっかく体育学を勉強しているのだから、安全な登山についてちゃんと研究しないと、という思いが出てきて、データを取り始めました。僕がスキー山岳部で活動していた70年代後半から80年代にかけ、レベルの高い登山家の事故が多かったのです。

 ――自分で山を楽しむ人が大半ですが、それを役立てたいという気持ちは段々と芽生えたのですか。それとも元々、人のために何かしたい思いが強かったのですか。

 最初はそんな考えはありませんでした。当時、科学的な登山研究をしていた医師の原真さん(1936~2009年)の下でトレーニングをして彼の隊に参加しました。

恩師の原真さん(左)。バンクーバーで

 かっこいい言い方をすれば登山家の禿(かむろ)博信さん(1951~83年)のおかげです。原さんの隊で(南米最高峰の)アコンカグアに行き、南壁を登っていたとき僕は低血糖になって目が見えなくなり、全身に力が入らなくなったんです。

アコンカグア南壁のの懸垂氷河。右下にいるのが禿博信さん 写真を拡大

 「もうだめです」「これ以上登れません」と弱音を吐いたら、禿さんに「ここからはお前がトップをやれ!」と叱咤され、どうにか完登できたんです。禿さんとはその後、やはり原さんのバックアップで81年に(ヒマラヤ山脈の)ダウラギリ(8167メートル〈m〉)に登るつもりだったのですが、「今度は間違いなく死ぬ」と思い始め、カトマンズまで行きながら登山を断念し、ひとりで帰ってきてしまったんです。

 禿さんは単独でダウラギリの無酸素登頂に成功し、その後、83年に日本人として初めてエベレストに無酸素登頂し、その下山時に亡くなりました。あの人のおかげで僕は今も生きていますけど、なんとも言えない気持ちでした。

 山の世界は狭いですから、それほど親しくはなかったけど一晩一緒に酒を飲んだ人が当時はヒマラヤでバタバタと亡くなり、何とかしなくちゃという思いが出てきて。

 幸い生き残った僕は彼らみたいな激しい山登りに徹することができず、中途半端な人間という自覚もあって。それならせめて、自分もそこそこの山に登りながら自分なりの運動生理学を役立てることが一番かなって思ったんです。


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