2024年10月10日(木)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年8月25日

イロイロの中国人墓地から見えるのは何か   

 比較的に新しい墓に出身地の記載がなく英文表記なのは大陸から移住して三世以降になると日常会話がタガログ語・ビサヤ語・英語となり中国語を話せず漢字を読み書きできないという背景がある。フィリピン華僑の大半は中国語を話せず自分の姓すら漢字で書けない人がほとんどだ。稀に中国語の読み書きができる老人もいるが移住一世の人たちである。

 何世代か後になると、祖先の出身地についてはせいぜい“中国の南の方の海の近くらしい”くらいしか子孫は知らない。カトリックに改宗して混血して生活習慣・言語もフィリピン社会に同化しているので祖先の出身地が意味を持たなくなるのだろう。

 華僑の1世には死ねば魂は故郷に帰るという死生観があるので、2世が親の墓を建てるときは出身地を必ず墓碑に記す。他方で2世、3世の墓を子孫が建てるときは、生まれ故郷が中国ではなく、出身地の漢字も分からないので出身地を記す必要性も方法もないのだろう。

 この墓地は1969年に開かれたが墓碑を見ると、自分が生前に墓を建てたときに既に物故した両親を合祀しているケースが散見された。19世紀末~20世紀初頭の生まれの人の多くは子供が墓を建てた時に合祀されている。

 いずれにせよ、イロイロ市の中国人墓地にも戦中・戦後の混乱期に大陸から混乱を逃れて渡航してきた人々も多数含まれているようだ。

セブ島の富裕層華僑が眠る公園墓地

セブ島の公園墓地のカトリック教徒の富裕華僑一族の墓。墓碑の上の聖像はセブ・シティーを向いている

 本編第8回(【フィリピンの中華街と華僑ビジネス】世界最古のチャイナタウンと言われているのがマニラ中華街)にてセブ島の華僑富裕層の超高級住宅エリア“ビバリーヒルズ”を紹介した。

 2022年8月。セブ・シティー市街地から数回路線バスを乗り継いで郊外の丘陵にある公園墓地に辿り着いた。ゲートのガードマンに挨拶すると墓地へ至る遊歩道を歩くように勧めてくれた。

 丘陵全体が人工的に整備されており自然公園の中のテーマパークのようだ。古代ギリシア風の彫刻がそこかしこにあり、古代ローマのような噴水庭園もある。ギリシア神殿のような建物が丘の上に見える。全体が古代ギリシア・ローマの様式美でデザインされている。

 ゆるやかな丘陵に囲まれた空間に高級石材を使った真新しい墓が点在している。十字架やマリア像が置かれた西洋的な墓と中国の伝統的な墓が半々くらいか。1920年代~1940年代に生まれた世代が多い。中国の出身地を記した墓碑は一つもなかった。ここに墓を建てた現在の世代では既に中国の出身地は意味を持たないのであろう。

歴史を感じさせる広大なマニラ中国人墓地

 2022年8月。正門には『華僑義山』と書かれ、正門の手前には花、線香・蝋燭の売店、仏具屋などが門前町を形成している。金持ちが寄贈した仏塔、仏像、道教の廟、鐘楼などが至る所にある。豪華な建屋式の墓が立ち並ぶ区画を歩くと華僑の財力に圧倒される。

 出身地の記載のある墓碑を少し調べたがやはり福建省の普江と南安ばかりであった。そして新しい墓碑は英文表記のみで出身地の記載はない。

『抗日英雄』の記憶は東南アジア華僑全体に共有されている

マニラ中国人墓地の「抗日烈士英雄門」。門の左側は大きな建屋式の墓が並んでいる

 中国人墓地で共通するのは戦時中の日本軍に対する“抗日”である。墓碑に個人の事績として抗日運動が記されている墓もある。またタクロバンやマニラの墓地には、抗日英雄記念碑が建てられていた。マニラには『抗日烈士英雄門』、『フィリピン華僑抗日烈士記念碑』、『フィリピン抗日烈士記念館』があった。中国語の碑文によると日本軍は華僑の財力に目を付け軍資金徴発のため華僑社会を過酷に支配したようだ。

 マレーシア、シンガポール、インドネシアなどの華僑も同様の苦難を強いられた。東南アジアの経済を支配する華僑は日本軍の蛮行を決して忘れていないことを日本人は心に留めなければならない。

中華民国総領事館員全員を殺害した大日本帝国の国際感覚欠如

奥の広場の中央に聳えるのが『楊光生総領事・殉職館員記念碑』

 マニラ中国人墓地の広大な敷地の中央にひときわ高く聳える慰霊塔があった。碑銘には『楊光生(正式の漢字はサンズイに生)総領事と殉職館員記念碑』とあり蒋介石から「効忠成志」の揮毫を贈られている。端正な楊光生の肖像には「丹心千古青史永存」(真心は永遠に歴史に残る)と記されていた。

 楊光生は米国プリンストン大学で政治経済学修士号、哲学博士号取得。ワシントン大学、ジョージタウン大学で客員教授。帰国後は精華大学教授。国民党政府の要請で外交部の要職を歴任。その後ロンドン総領事館兼務で欧州各国への対外宣伝活動に従事。経歴が示すように国際派知識人である。

 1940年からマニラ総領事。日本軍占領後は華僑の保護に挺身。当時の日本政府は重慶の蒋介石国民党政府を承認せず、南京の汪兆銘政権を中国代表とした。在マニラ日本領事館は楊総領事に国民党政府を捨て、汪兆銘政権の配下に入ることを要求。さらに華僑を指導し、大東亜共栄圏構想に従い日本軍に協力して巨額の軍資金を供出させるよう要求。

 楊光生が日本の要求を拒否すると、日本軍は“抗日工作”の罪名で逮捕。数カ月の説得工作・脅迫にも楊総領事は屈せず、遂に日本軍は1942年4月に総領事と館員をマニラ中国人墓地で秘密裏に殺害。これが『外交九烈士殉職事件』である。

 欧米各国が中国政府として正式承認していた蒋介石政府にとり、日本軍による外交官殺害は、日本軍の残虐非道をアピールする格好の対外宣伝材料となったであろう。フィリピンの日本軍政下の陸軍や、外務省の当局者の中に国際情報戦略を少しでも考える国際派エリートはいなかったのだろうか。

 自分たちの要求に従わない不都合な人間は殺してしまえ、という短絡思考が軍政下で蔓延していたとすれば、大日本帝国にはそもそも統治者としての資格も能力もなかったと言える。

以上 次回に続く

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