2024年8月25日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年8月25日

(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空券含む〉)

レイテ島、マッカーサー元帥が上陸したタクロバン市の中国人墓地

 8月18日。タクロバン市郊外の田舎道の脇の中国人墓地。1978年に建てられた墓地の正門には『萬江義山』とあった。

 建屋式の墓には〇公□□佳城と書かれている。写真の墓には姚公文挙佳城とあった。墓碑には俗名と戒名(贈名)が刻まれている。出身地は姚氏夫婦ともに福建・普江・内坑(現在の福建省泉州市普江市内坑鎮)注:現代中国では泉州市のような大都市では行政単位として下級市と県があり、その下の最小行政単位が鎮である 普江は金門島の対岸付近。夫は1916年~1993年、夫人は1920年~2004年。

 隣の楊公杯河佳城は楊氏夫婦、カトリックに改宗、出身地:福建・南安・新墟(夫:1901~1998、夫人:1903~1980)現在の福建省泉州市の南安市新墟鎮であり普江市の隣だ。

 共同墓地にはこのような建屋式墓地が250くらい並んでおり、現在建築中の建屋式墓地も数か所あった。費用が安く済む屋根のない西洋式の墓も200基くらいあった。

タクロバンの中国人墓地の建屋式墓が並ぶ通り。まるで町角のような光景に見える

タクロバンの中国人墓地に眠っている人々の生きた時代背景

 西洋式の墓は墓碑が姓名のみの簡素なものが多く、または風雨にさらされ碑文が不鮮明であった。そのため墓碑に故人の姓名・出身地・生年月日などが刻され判読可能な建屋式墓地を20基調べたところ下記のような特徴が浮かび上がってきた。

■出身地
33人すべてが福建省出身。普江が17人、南安13人、泉州3人。全員が現在の泉州市の出身。
■宗教:7割がカトリックに改宗。
■生年別内訳
1900~1910年:8人
1911~1920年:13人
1921~1930年:8人
1931~:3人

 生年月日が1900~1930年の世代が9割。しかも両親や祖父母を合祀している墓はなかったので大陸からの移住者の第一世代が大半と思われる。若くても10代後半、恐らく20代から30代で渡航してきたのではないか。大陸では日中戦争、国共内戦、共産化の混乱期、すなわち1935年から1950年代初頭にかけて単身又は夫婦で渡航してきたと推測される。出身地が同一の夫婦が多いのもそうした背景があるのではないか。

 つまり戦中・戦後の混乱期に主に福建省泉州からフィリピンに渡航して、タクロバンに定住した数百人くらいの華僑の人々が『萬江義山』墓地に眠っており、そのうちの7割程度はカトリックに改宗した。

今もなお記憶されている占領期の日本軍の蛮行と抗日運動

 福建省南安出身の楊氏一族の建屋式の墓で墓碑を調べていたら、墓参に来た家族と遭遇した。楊家の現在の家長の祖父は戦前にタクロバンに移住。日本軍が進駐すると財産を没収され、終戦まで刑務所に収監され拷問を受けたという。日本軍は軍費を賄うために華僑に対して金品供出を命令したが祖父が全額は払えないと抵抗したのでゲリラ容疑で逮捕されたという。

 ボルネオ島のコタキナバルの中華街の古老からも、全く同様の話を聞いたことを思い出した。古老の父親も同様の理由で終戦まで収監された。古老の友人の漢方薬卸問屋の主人の父親は、日中戦争で中国の故郷の家を焼かれ、コタキナバルに移住して苦労の末に開業したが日本軍の空爆で全焼。日本軍に二度も酷い目にあったので、日本人は嫌いだと吐き捨てた。コタキナバルでは日本軍の金品徴発と蛮行に対して華僑義勇隊が一斉蜂起した。その詳細が中華学校の歴史読本に載っていた。

ネグロス島ドゥマゲティ市の中国人墓地

ドゥマゲティの中国人墓地。奥の高台のあたりにはまるでチャペルのような建屋式墓が見える。手前は西洋式の墓。この墓地の特徴は墓の大きさやデザインが多様なこと

 2024年3月。ドゥマゲティ市郊外ドロ地区の中国人墓地。敷地は500メートル四方くらいか。正門には「華僑義山Cemetery」と書かれ、その上に十字架が立っていた。

 墓参に来ていた家族に聞くと、この中国人墓地に新たに埋葬する余地がないので、2010年以降は新しい中国人墓地に埋葬しているという。タクロバンの共同墓地より規模が大きく、建屋式の墓よりも西洋式の墓のほうが多い。生年は1910~1930年代が最も多いが19世紀末も散見される。出身地はざっと見たところやはり福建省が圧倒的多数で広東省が数人程度だった。そしてほぼ全ての墓に十字架が見られた。やはり戦中・戦後の混乱期に渡航して来た人々が過半を占めるようだ。

『姚公文挙佳城』の内部。建屋式墓の典型的な墓碑のスタイルだ

パナイ島イロイロ市の中国人墓地

 2024年4月。人口40万人の大港湾都市であるイロイロ市には大きな中華街がある。中華街から10キロほど北に『華僑義山Chinese Cemetery1969』と正門ゲートに書かれた中国人墓地があった。墓地の敷地面積はタクロバンやドゥマゲティよりもかなり狭い。全体の四分の一程度の130人ほどの墓碑銘を調査した。

 まず数基を除いてすべての墓に十字架があった。墓碑銘から読み取れたのは以下のとおり:

■出身地:
福建省:74人(普江48人、南安19人、厦門7人)
広東省:12人(台山3人、永寧3人、以下1人開平、思明、恵安、永春、興寧、嗎頭)大半はマカオの南西部の沿岸部
出身地不明:40人 比較的新しい西洋式の墓(屋根のない)では大半が出身地記載なし。姓名も英字表記のみで漢字表記なし。
■生年:
1899年以前:8人
1900~1910年:20人
1911~1920年:11人
1921~1930年:11人
1931~1940年:8人
1941~1950年:8人
1951年以降:9人


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