その後、大手メディアの代表である朝日新聞編集部からこのテーマについての姿勢を明らかにした文章が公表された(12月1日)。要は、公職選挙法148条にある報道規制の枠組みの中で予測していなかった事態が起こったことに対する弁明だった。
新聞の公器性、その影響力の大きさ、不偏不党と公正、候補者に対する公正・平等の立場から主観的判断や表現の自由の乱用の疑念のある事態への対応が十分にできなかったことに対する問題提起でもあった。既成大手メディアの報道に対向対抗したSNSなどデジタル・ネット時代のソーシャルメディアによる情報発信の手法と内容の有効性とその対応をめぐる議論だ。
斎藤氏支持は大手メディア批判の側面も
そもそも無記名かつ不特定な発信者による自由な情報発信は、「情報発信の民主化」の美名のもとに、どこまで許されるのか。今回の兵庫県知事選挙では、検証不可能な情報が、あたかも真実の装いを得てまことしやかに拡散したことにはそれなりの要因がある。今回の場合でいえば、不確かな情報が既存の大手マスメディアに対する不満や批判に便乗する形で、斎藤氏に対する「判官びいき」の支持を増幅させた。
第一にソーシャルメディアは「バズル」などの言葉に象徴されるように情緒的な無責任な情報拡散現象を起こしやすいというデジタル情報手段の本質がある。第二にその攻撃の矛先が大手メディアに向かったというもう一つの論点もある。立花氏の選挙活動が斎藤氏の再選につながったことは確かだが、「NHKから国民を守る党」代表としての立花氏の政治的信条からすると斎藤氏擁護よりも大手メディア攻撃こそがその目的であったと推測できる。
他方でその原因の一端は大手メディアにもなくはなかった。筆者自身、大手メディアの腰が引けていることは日ごろから痛感していることだ。連日の官房長官記者会見では、「コメントは差し控えさせていただきます」という官房長官の木で鼻をくくったような回答に、大手メディアの記者が鋭く切り返すような場面はとんとみない。てかつての権力に対抗する庶民の味方という新聞記者魂はうかがえない。手帳片手に鉛筆で指し示しながら政治家に迫るかつてのジャーナリストの「正義感」は見る影もない。
予定調和の精神なのか、大手メディア内部の組織原理の反映なのか、表現の自由の限界を自ら露呈しているように感じるのは筆者ばかりであろうか。
情報攪乱が個人で起きる時代
しかしそのうえでも、デジタル・ネット時代の不特定性と発信の無責任性の議論は深刻だ。そのための「規律あるメディア」の保証は不可欠だ。
欧州連合(EU)では、2024年2月からデジタル・サービス法 (DSA)の全面適用が開始された。その目的は違法コンテンツ対策や未成年者保護措置を行うことにある。オンラインでの違法で有害な活動や偽情報の拡散防止、ユーザーの安全を確保し、基本的権利を保護し、公正でオープンなオンラインプラットフォーム環境を構築することだ。
わが国ではそうした取り組みはEUよりは遅れたが、SNS上で誹謗中傷の主体となった人物の速やかな特定を可能とする制度改正、そして24年にはプロバイダー責任制限法で情報の編集権(情報の取捨選択権)などについても規定している。
デジタル時代の情報発信の民主化が促進されている。しかしそれは規範意識を基礎にして初めて意味がある。