パーソナライズした無作為の情報拡散はカオスの源以外の何物でもない。個人が得ている情報は今やマスメディアによる法や規範に支えられたパッケージ化されたコンテンツではない。情報そのものの価値や意味よりも、「アテンション(注目度)」に重点が移動し、コンテンツの質よりも情報の「刺激性の競争」が起こりやすい。
今回の選挙の現実もそれに近かったのではなかったか。それを情報の民主化と呼ぶなら、それはデマゴギーだし、大衆迎合という意味でのポピュリズムと同等だ。
しかもその背景には、ネット社会特有の人間の直接的な接触を伴わない虚構のコミュニティと分断が進む。それぞれの個人は居心地の良い孤立集団、俗にいう「インフォメーション・コクーン」「エコチェンバー」「サイバーカスケード」などという言葉で表現される仲間内だけのコミュニティに身を隠し、真の意味での議論を避けようとする。「確証バイアス」と呼ばれる現象だ。社会的分断を背景にした仲間意識の中で保護された個人に正しい成長はない。
今回の兵庫県知事選挙に限らず国際的にもSNSなどを通した偽情報などによる混乱は、歴史的には戦争をめぐるかつての呼び方でいえば「プロパガンダ」情報戦に代表される。選挙の例でいえば16年BREXIT(英国のEU離脱)の国民投票の際に離脱支持派がEUへの英国の分担金で社会保障費を賄うことが易々できるとうそぶいた。選挙後離脱派がその数字は虚偽であったと弁明する体たらくとなった。
しかし「勝てば官軍」だ。そしてそれをよしとするなら、そこにはモラルの低下と知的世界の凋落だけが残る。それを監視するのが知識人の役割のはずだが、その力はいつの時代も脆弱だ。「大衆迎合主義」としてのポピュリズムの行き着いた先がファシズムやナチズムであったことは偶然ではない。
もともと戦争時には「間接侵略」という歴史的用語があり、その意味は直接的軍事侵略に先立って情報攪乱による内戦状態を形成することだ。しかし今日のデジタル時代にはそうした状況が個人のレベルで容易に起こる。情報がパーソナライズ化されてしまうからだ。
衆愚政治ではない民衆の政治とは
その意味では規制は必要だが、しかしそれが言論統制になっても困る。デジタル時代の議論のあり方とデモクラシーは切り離せないからだ。
そして情報発信の民主化とパーソナライズ化という今日の現象は「大衆社会」の議論を思い起こさせる。かつてファシズム的社会状況と比較して論じられた情緒的な集団行動に支配されやすい「大衆社会」状況を彷彿させる危機感を筆者は覚えている。
ソーシャルメディアの発展は本来庶民・大衆の味方であるマスメディアのお株を奪う現象だ。だとすればそこで言われる庶民・大衆とは何であり、その発信手段の正当化はどのようにして担保されるべきなのか。今日われわれが突き付けられている論点だ。そしてその解決は理想としてのデモクラシーの議論の切磋琢磨の中にしかない、と筆者は思う。