2025年1月12日(日)

Wedge OPINION

2024年12月9日

 「大衆社会」という意識は支配と被支配の人類の歴史の中で生活の豊かさや労働からの解放を通して人類が勝ち得た歴史的成果であることは確かだ。しかしアモルフ(不定形)な一般衆人が政治に関与するという時代の危険性は、プラトンの託宣を待つべくもなく「衆愚政治」と紙一重であることも確かだ。

 だとすれば、衆愚政治ではなく、デモ(民衆)の政治が最善の形で行われるデモクラシーにおけるメディアの役割とは何か。またそれはどのような条件で正しく機能するのか。

 そのような問は見果てぬ「理想の夢」かもしれない。しかしそれを追い求める姿勢を放棄するならば、そこからはもはやデモクラシーは育成されない。

 つまりデモクラシーは時代とともにより最善の政治の機能を目指した理想主義であり、それは千変万化、縷々人間の政治社会生活の変容に最適な形で寄り添っていく政治を指している。特定の固定した制度ではない。

 常に理想に向かって進化していく日常がデモクラシーなのだ。19世紀の政治参加の平等の要求は、その後社会権や経済権にまで及び、今日ジェンダー・環境の公共性にまで及んでいるのが先進各国における現代のデモクラシーだ。

私たち個人がデモクラシーを追求できているのか

 逆説的な言い回しになるが、デモクラシーがうまく機能せず、特定の政治勢力に扇動される形態へと変化していく過程で顕著になるのが「大衆迎合主義」であり、そのことをポピュリズムと呼ぶ。「よいポピュリズム」として十全に機能しているのであれば、それは「デモクラシー」と言い得るのであり、「ポピュリズム」という言葉が流布するのであれば、それは人々がデモクラシーへの危機感を強くし始めていることを意味するのではあるまいか。

 人類史の中に脈々と根付く問題はそうしたポピュリズムの偏向した議論の背景となる人間心理、社会心理的な脆弱性だと筆者は思う。デモクラシーの根本は自立した個人による理想社会の形成へのたゆまぬ努力と協力の精神だ。しかし人々はなかなか個人として自立し、社会に正面から立ち向かえるほど強くはない。それで集団を形成する。

 理想を追求するには不屈の信念と強い意志が必要だ。そしてそれにくじけやすいのも人間の本質だ。デジタル社会の無責任な情報拡散の危険の本質はそこにある。それは本来デモクラシーの監視役でなければならない知的世界、学会のソーシャルネットを用いたきちんとした議論のないままの意見拡散による派閥形成の志向にもみられる。議論を欠落させた集団化だ。

 斎藤氏再選が突き付けた今日の課題はデモクラシーの今日的あり方にまで行きつく根深い問題だ。テクニカルな規制や規範の担保と同時に、ソーシャルメディアという新しい媒体を通した情報伝達を支えるデモクラシーを担う個人の資質と社会的自立の在り方が問われている。それには教育・研究をめぐる知的世界を含む広範なレベルでのポピュリズム化を防止し、人間心理の迷走の克服を探求する資質の育成にかかっている。

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