2024年11月7日(木)

Wedge REPORT

2024年10月21日

 石破茂新政権は首班指名同日に解散総選挙を宣言した。この事態を前にして筆者が想起するのは、1997年にフランスのシラク政権が8割以上の与党議席を持つ中万全の態勢で行った抜き打ち解散選挙で大敗北し、政府首班の後退にまで至ったドラマチックな政治劇だ。

早期の解散総選挙を打って出た石破政権に対し、国民はどう判断するのか。日本の政治が試されている(代表撮影/ロイター/アフロ)

 筆者はそこに「デモクラシー」の本質の一端を見た気がした。その意味で今回の解散総選挙は興味津々だ。日本のデモクラシーが試されている、と言っても過言ではない。

党利党略とデモクラシーの大義

 今回の解散総選挙については、野党はこぞって与党自民党の党利党略だと非難する。「国民に信を問う」というのであれば、きちんと議論をし、残りの任期1年の間に裏金問題で招いた政治不信を回復させるための努力する姿を国民に評価してもらうというのが正論であろう。

 前選挙時にも言われたことだが、立憲民主党の野田佳彦代表の言葉でいえば「ご祝儀人気にあやかる選挙」というのは正鵠を射ている。支持政党を超えて理屈の上では、野田氏の政府批判に賛同する人も多かったのではないかと思う。

 しかしその「正論」がなかなか通りにくい。むしろそれを前提としない言動の方が主流ではないかと思われる向きもある。正論は正論だが、喫緊の課題の方が重要だ。

 しかも政局や社会が動揺するのは避けたい。安定が担保される範囲での選択にしたい。したがって目先の「無難な」解決論に議論は終始しがちとなる。

 「正論」は頭でわかっていてもなかなか投票行動には反映しない。しばしばいわれる保守的な日本のデモクラシーの特徴であり、限界であるといってもよいが、だとすれば日本国内でのデモクラシーの意味そのものが問われるべきではないか、と筆者は思う。

 もちろん、今回の解散総選挙は合法だ。裏金事件をめぐる政治不信も現実だ。しかし議論の本質はもっと根の深いものではないか。

 筆者は今般の事態は日本的なデモクラシーそのものの限界に対する危機ではないか考える。抽象的な言い方だが、その背景には「政治の大義」そのものの議論が欠落しているからだ。


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