党利党略と国民が判断した1997年仏総選挙
1997年6月、フランスの抜き打ち解散選挙は予想を覆して、ジョスパン第一書記の率いる社会党が勝利した。フランスの国民議会議員の任期は5年であるから、任期満了まで10カ月を残して万全の態勢で与党が臨んだ選挙だったが、選挙の結果は議会の早期解散を決断した保守派シラク大統領の判断の誤りを証明した。逆に選挙代表の選出でも難航し、凋落著しかった野党社会党は4倍近くの議席増となった。
保守派与党連合は、国民議会577議席中、社会党を中心とする左派全体の319議席(社会党245議席)に対してわずかに257議席(国民戦線FNを除く)を獲得したにとどまった。前回93年3月の総選挙では、当時ミッテラン大統領の与党だった社会党は282 議席から 67議席へと議席を激減させ、他方で野党保守連合は267 議席から485 議席へと激増、8割政党となっていたので、予想外の野党の大逆転となった。その背景には国民の与党に対する「制裁」の意識があった。
シラク大統領の「狡知」を忌避した国民
シラク大統領が93年の総選挙で得た8割の与党議会勢力を目減りさせても、翌年の98年3月に予定されていた国民議会選挙の繰り上げを決断したのは単一通貨ユーロ導入を何としても実現するためであった。とくに財政赤字を3パーセント以内に抑え込むという共通通貨導入の条件は各国に重くのしかかっていた。フランスもその例外ではなかった。
当時の経済的苦境が続いていけば、国民はユーロ導入に不安を持つであろう。そして選挙が予定通り実施されると、それは通貨統合決定の日程と重なり、保守派の敗北は不可避となるという悲観的な見方があった。
加えて公務員削減策に対する反政府抗議活動が頂点に達した96年秋に比べると、この時期に大統領・首相の人気が上向き始めたという楽観的認識もあった。そして、選挙の前倒しは準備不足の野党を出し抜く有力な手段でもあった。
フランスの財政赤字は94年にはピークに達していた。95年大統領就任後、シラン政権は、TVA(付加価値税、2%)、富裕税・法人税(10%)、煙草・燃料税・ガソリン価格・貯蓄税などの引き上げ、最高課税率の引き下げ(累進課税対象の拡大)、貯蓄税制優遇措置廃止(動産非課税額の上限引上げ)、赤字のかさむ社会保障費部門については、社会保障債務返済税(RDS)の導入、医薬品節約、無駄な出費を避けるための医療保険手帳の義務化などの増税緊縮措置を実施した。さらに、政府は、97年度にはほぼ全省庁に対して行なわれる公務員削減を歳出削減の中心とした。
増税・公務員削減・社会保障費削減などの措置は厳しい生活を強いられる国民の反発を買った。とくに、歳出削減のため公務員年金積立期間延長や公務員給与の凍結策(96年度)に対して労組による全国規模のゼネストをはじめとして激しい抗議活動が展開された。
95年11月から12月には都市の機能は麻痺した。96年10月と11月にも公務員の大幅削減案に対する抗議活動は再びパリをはじめとする都市を混乱に陥れ、97年にかけて反政府抗議行動は活発化し、社会騒然の観は否めなかった。
ユーロ導入のための緊縮財政政策自体は間違ってはいないが、国民に不人気であることはどこも同じだ。そうした苦渋の政策を推し進めるための多数派維持、政権延命策として勝てるうちに選挙を実施する。それは政治家としては当然の論理とも言え、それ自体デモクラシーの手続きを逸脱しているわけではない。しかしその手法はいかにも為政者側のやり方だった。
まだ1年任期を残しているうちに抜き打ち的に実施した総選挙を国民は嫌ったのだ。このシラクとジュペのいわば「狡知」は見事に失敗した。