エリートたちが庶民を無視して実施した選挙は、上手の手から水がこぼれた感もあった。つまり緊縮政策を受け入れるか否かという解散の大義をめぐる議論とそのためには任期という原則を無視して勝てるうちに選挙を行うという党利党略に国民はノーと言ったのだ。
それ以後、本年6月までフランスでは任期満了前の延命目的の解散総選挙は行われなくなった。国民の判断を前にして余りにもリスキーだからである。
まず選挙ありきの日本政治
翻って日本の政治を考えた場合に、むしろ近年任期満了選挙の方が少ない。政党事情優先の選挙が当たり前になった感がある。
2014年の安倍晋三首相の下で自民党が大勝した時も、消費増税先送りを餌に、争点が明確でないまま抜き打ち選挙となった。「政治と金」疑惑のかかっていた松島みどり前法相(当時)や小渕優子前経産相(同)なども当選した。
そして21年10月に発足したばかりの岸田文雄内閣は発足10日後に解散総選挙を発表した。このときは任期満了を直前に控えた選挙となったが、政権発足後の「ご祝儀相場」を狙った選挙だったことは明らかだ。この時も自民党は勝利した。
デモクラシーには正当性は不可欠だ。自民党総裁任期が満了し、石破総裁・総理が就任したから、民意を問うために総選挙を行う、という。筆者にはこれがどうもわからない。
不人気の岸田首相が国民の信を問うために解散総選挙に打って出るという話ならばわかる。しかし、岸田首相の下では次の選挙は敗北する、それでは戦えない、という方向に論点は向かい、勝てる見込みのあるうちに解散となった。
これは政治の成果主義ではなく、まず選挙ありきという本末転倒の議論だ。それはたしかに違法ではない。しかしそれでは政治の大義、デモクラシーの大義は失われたままだ。
試されている有権者
「勝てるときに選挙する」という論理からは、真の意味での「国民に信を問う」ということにはならないはずだ。自民党は政権与党だから、国民の信頼回復のための政治を任期ぎりぎりまで行うという姿勢が当たり前のはずである。
我が国のデモクラシーのポイントはそこにある。人気がなくても、信頼が不十分でも選挙に勝てるのである。
それはフランスのように一人一区の二回投票制で勝ち負けが僅差でも明確に議席数に反映するという制度ではないからだが、問題は制度だけではない。世論調査にみるように、石破総裁誕生の第一の理由として「適切な人がいない」というのは、国民意識の問題だ。必ずしも政治家だけの問題ではないように筆者は思う。
「政治家・政府に任せた」、あるいは「政府が決めたことだから仕方ないので従う」というのはそもそもデモクラシーの精神ではない。首相にふさわしい人を育てる。また不十分であっても自分たちで育てていく。そうした意識が日本のデモクラシーには弱いように思われる。
またフランスの90年代の例になるが、シラク、オランド、マクロンらフランスの歴代大統領や大物実業家を輩出するエリート校パリ政治学院学長は、30代の官僚出身の卒業生に決まった。筆者も彼と話す機会があったのでそれなりの人物であることは了解した。しかし同校の旧知の看板教授に「若くて大丈夫なのか。経験不足ではないのか」と質問したところ、彼は「その通りだ」と答えて、「みんなで話し合って優秀な卒業生だから連れてきたのだ」と続けた。そして「そのときみんなで彼を支えることに決めたから大丈夫だ」と加えた。
若いから経験が足りないので、年功序列の組織に揉まれて経験を積ませ、その後昇進させるという発想ではなかった。選ばれるものにその器量があると認める以上、選んだ方にも責任があるという意味だ。だからこそ真の代表なのである。