ヴァレリーはドガが残した、さまざまなポーズをとる踊り子のデッサンの動いているような躍動感に強い感動を覚えて「ドガ・ダンス・レッスン」という評論を書く。
〈ドガには身振りへの奇妙な感受性があった。そもそも踊り子やアイロンをかける女を扱うとき、ドガは職業上重要な姿勢を取っている姿を捉えたが、それによって彼は人体の視覚像を一新させ、彼以前の画家たちが誰も関心を寄せなかったような数多くのポーズを分析することが出来た〉(塚本昌則訳)
「彼は柔らかく横たわる美しい女たち、心地よいヴィーナスやオダリスクに、彼は目もくれなかった」と、ヴァレリーは続けている。第二帝政が崩壊して社会秩序は動揺している。そこに生きる人々の生身の姿を、あたかもドキュメンタリーの映像のように彼は描いて、モデルが動き出すような臨場感がそこにもたらされた。
「反ユダヤ」という通奏低音が響きだす
バレエの踊り子、婦人の帽子屋、アイロンをかける女、入浴する女、さらには娼婦にいたるまで、ドガがモデルとして描いたさまざまな女たちには、第二帝政の崩壊と普仏戦争の敗北という、カオスの時代へ向けた彼の仮借のないまなざしが投影されている。
オーケストラボックスの神妙なオーボエ奏者を描いた「オペラ座のオーケストラ」では演奏席の上部で美しいチュチュ姿の踊り子が舞っている。競馬場や調教の場で歩みを進めるサラブレッドの姿にも、同じような画家の〈時代〉に対する視線が注がれた。
こうしたパリの社交空間こそ、彼の美意識を掻き立てる故郷であった。ドガの姪にあたるジャンヌ・ファブルはそこに、革命後の社会の揺らぎのなかで「あたかも貴族のようにふるまう」という、ドガが表現のなかに抱き続けた反時代的な意図を見出している。
〈ドガの作品はすべてそうでしたが、当時の人たちが彼を誤解し、単なる写実画家であるとか、俗悪な生活を臆面もなく描く画家であるなどと考えていたのですが、ドガ自身は生まれつきのブルジョワだったのです〉(「ドガの思い出」)
より正確にいえば、フランス革命のときにナポリに亡命し、銀行を起こした祖父のイレール・ドガがもともと王党派の末裔だったということもあり、画家のなかには伝統と保守主義への根深い確信があったということである。
「印象派」をはじめとする新しい動きが広がり、フランス社会が揺らぐなかで、彼の守旧的な立場は足場を失おうとしている。普仏戦争に敗れて祖国は莫大な賠償金を背負い、アルザス・ロレーヌという領土を失った。国際的な金融資本の台頭などで、孤独な不安を抱えるドガのなかの「反ユダヤ」という通奏低音が響きだすのである。