アトム海外進出の立役者
『鉄腕アトム』の放映が開始された1963年、歌手アイ・ジョージ はニューヨークのカーネギー・ホールで開くコンサートの準備のために渡米することになる。アイ・ジョージのマネージメントを行っていた広告代理店ビデオプロモーション社長の藤田潔が同行することになった。藤田は渡米するなら他のビジネスもやろうと、日本アニメーションのアメリカへの売り込みを画策する。彼の会社は、「3人のアニメーションの会」の久里洋二、真鍋博、柳原良平のマネージングもしていたが、彼らのショート・アニメーションだけでなく、テレビ・アニメーションも一緒に売り込もうと思い、TBSの常務に『鉄人28号』を貸すように頼むが、日本のものはアメリカでは売れないと断られる。しかし虫プロから『鉄腕アトム』(フジテレビ系列)の16ミリ・フィルムを一本借りることができた。当然、字幕など付いていなかった。
渡米した藤田は、3大ネットワークと呼ばれていた放送局にアニメーションを見せてまわる。NBCだけが『鉄腕アトム』に興味を示し、契約にこぎ着けることができた。『鉄腕アトム』の輸出は大きな事件となり、当時の『TVガイド』誌は、こう報じている。
「昭和38年2月1日、米国にそのフィルムが年間3億円の契約で売られると報道されるや、一夜にして町全体の名物にまでなった。『二つ返事でまとまりました。フジで使う52本を全部買い取るというものです。1本1万ドルで、手取りは日本円で1億円ちょっとというところです』。それに加えて買い取った局とスポンサーとのマーチャンダイス(取引)によってオモチャや出版の案もあり、その特許料を含めると3〜4倍になるとのこと」
その年の9月3日にアメリカ版『鉄腕アトム』である『アストロ・ボーイ(ASTRO BOY)』が放送される。当時、NBCと関係が深かったフジテレビは、NBCが『アストロ・ボーイ』という新しいアニメーション・シリーズを放映したと聞き、わざわざ買い付けに行った。するとそこで目にしたものは、フジテレビで放映している『鉄腕アトム』であった。
ディズニーはクリエーターとしての才能には恵まれなかったが、プロデュース力には優れていた。一方、手塚治虫(1928-1989)は漫画の神様だったが、経営者としての才能を欠いていたようで、1973年、虫プロダクションは倒産する。
※新「虫プロダクション」(1977年に新たに設立された虫プロ)