イタリアのトップリーグであるセリエAで長く活躍した長友佑都(FC東京)のように、最初は拙い言葉でも積極的に交流して入っていくような選手もいれば、現在の代表キャプテンである遠藤航(リバプール/イングランド)のように、落ち着いた振る舞いでチームと関わっていくタイプもいる。
そこに絶対的な成功ルートは存在しないし、時には運不運も成功のファクターになりうる。それでも日本では決して経験できない異国の環境において、自分なりの立ち位置をうまく見つけていくことが、すべての選手に共通する成功の鍵だろう。やはり海外でプレーするということは試合や練習だけでなく、生活面でも現地に馴染んでいかないと、チームメートや監督との関係、引いては試合のパフォーマンスにも影響してしまう。”順応力”と言うべきか、異なる環境を自分のフィールドにしていけないと、海外で成功し続けることは難しい。
“最初の地”をどのような環境にするか
ひとくちに海外の環境といっても、国や地域、あるいはクラブによっても変わってくる。選手によってはクラブが通訳を付けてくれたり、代理人が契約関係だけでなく、現地での生活面までサポートすることで、できる限りサッカーに集中できる環境を整えてもらうケースもあるが、それぞれ置かれた環境にどう適応し、試合で良いパフォーマンスを出せるかが重要になる。
例えば川崎フロンターレから欧州に移籍した選手でも、例えばポルトガルのサン・ミゲル島にあるポンタ・デルガダを本拠地とするサンタ・クララから海外挑戦をスタートさせた守田英正(スポルティング/ポルトガル)と、日本人の在住者が多く、日本サッカー協会(JFA)の欧州支部があるデュッセルドルフでスタートした田中碧(リーズ/イングランド)では全く異なる。
守田は日本代表の中でも、海外移籍後に大きく成長を見せた選手の一人だ。流通経済大から18年に川崎フロンターレでプロのキャリアを始めた守田は中盤の主力に定着し、ルーキーイヤーでリーグ優勝を経験。19年1月に行われたアジアカップで、日本代表に初招集された。その後、21年1月にポルトガル1部のサンタ・クララと契約した守田だが、ほとんど日本人もいない環境で、まず自分を周りに知ってもらう努力をしたという。
生活面はもちろんだが、サッカーも細かくパスを繋ぐ当時の川崎のスタイルとは大きく違っていたため、言葉がなかなか通じない中でも、周りの選手と積極的にコミュニケーションを取り、監督スタッフも含めて、自分がどうしたいか、どうして欲しいかを伝えることに注力した。サンタ・クララでの2シーズンの活躍が認められる形で、守田はポルトガルの名門で、首都リズボンに拠点を置くスポルティングにステップアップを果たすが、厳しい環境に身を投じながら現地に適応すると同時に、周りに伝えるスキルを磨いたことは、日本代表にも生きているようだ。
川崎の下部組織育ちである田中はプロ5年目の21年夏にドイツ2部のフォルトゥナ・デュッセルドルフに移籍。初めての海外移籍となったが、ドイツの中でも生活環境の整っているデュッセルドルフの環境が、順応という意味でプラスに働いたのは確かだろう。
田中は「もう少し難しい環境でスタートしても良かった」と冗談半分に話していたほどだ。同じ時期に、育成年代からドイツで活動する内野貴史(アル・ワスル/アラブ首長国連邦〈UAE〉)がセカンドチームにおり、翌年にはトップチームに合流してきたことも、特にコロナ禍の難しい状況においては助けになったようだ。
生活面で大きな不安がないと言っても、ドイツのクラブというのは監督やコーチがドイツ語を使って指導する。それに対して誰かがいちいち、日本語に通訳してくれる環境ではないため、少なくともピッチ上で使うような現地の言葉はすぐに習得しなければいけない。もちろん必要に応じて英語も交えながらコミュニケーションを取ることも可能だが、ピッチ内でのコミュニケーションが求められるというのはどの選手も変わらない。
その田中もデュッセルドルフを1部に導くことができず、日本代表の”欧州組”では数少ない2部リーグ所属の選手として活動に参加するなど、順風満帆というわけではなかった。しかし、ドイツでの3シーズンを経て、イングランドのリーズ・ユナイテッドに移籍。1年目にして中盤の主力に定着した。
