人は賢くもあれば、愚かでもある。同時に、誰しも自尊心と羞恥心を持っている。だからこそ、一対一の対話では、賢さを表現し、愚かさを抑制しようとする。
ところが、この抑制は、無数の観衆を前に匿名で発言するという舞台構造にあっては、いとも簡単に外れてしまう。結果として、羞恥心は薄れ、むしろ、感情を垂れ流す快感に酔いしれてしまう。
「成熟した市民」を前提としない民主主義のために
民主主義とは「成熟した市民」という、楽観的で非現実的な人間観を前提としている。ただ、今日のネット空間を見れば、「主権者が成熟した市民となり、いつの日か理想的な民主主義が実現する」と夢想する人はいないであろう。しかし、今さら民主主義以外の政治体制をとることはできない。さて、どうするか。
ひとつには、「主権者が市民として成熟することはない」ことを前提に、「制度としての理性」を育む構造を作ることであろう。確かに、主権者は無知であり、かつ、知ろうともしない。その一方で、学校教育を受けている。
文字も読める。英語すら読める。インターネットも使える。グーグル翻訳も使える。だから、その気になればいくらでも情報は得られる。それでも、得ようともしない。
それは当然である。知識を得ることに、インセンティブが働かないからである。一票が政策に与える影響が限りなく小さいことを知っているから、学び、動き、変えようとは、決してしない。
しかし、感情が政治的行動の最初の原動力になることは、忘れてはならない。ネット空間を見れば、人間が敵意・憎悪・嫉妬といった感情にいかに突き動かされるかは明らかである。だからこそ、激しい感情を当事者としての自覚に換え、理性へと橋渡しし、行動へと促していくこともできるはずである。
感情を当事者意識に換える
ひとつの成功例は、可動式ホームドアの設置である。
最初に、視覚障害者の激しい感情があった。「死の恐怖」である。だからこそ、長く「点字ブロックだけでは不十分。転落防止のためのホームドアが必要」と、鉄道会社や国土交通省に要望を出してきていた。
2010年8月、青山一丁目駅で、視覚障害者が転落して亡くなった。この事故の報道を受けて、政治が動いた。国土交通省も12年に「バリアフリー整備ガイドライン」を改訂し、現在では各地で設置が進んでいる。
悲劇が契機となった点は、悲しむことである。しかし、人の死を無駄にしないのは、いたって建設的な行動である。
大衆民主主義の時代にあっても、「声なき声」が無力であるとはかぎらない。視覚障害者とは、数の論理からすれば、圧倒的な少数派である。しかし、この少数派が「死の恐怖」という極めて切実な感情的動機を持ち、それを問題意識に換え、継続的に発信し、社会的共感を獲得していったのである。
