2025年12月5日(金)

医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から

2025年7月17日

 参議院選挙の投開票を20日に控え、SNS上ではすでに熱気を帯びた言論戦が展開されている。情報の伝播は速い。誰もが参加できる。意見も表明できる。これは民主主義にとって好ましい。しかし、同時に、この言論の舞台が、どのような構造に基づき、どのような効果をもたらしているのか、問い直すべき時期に来ている。SNS空間は、理性的な市民社会の基盤を広げているのか、それとも、「衆愚の広場」と化しているのか。

参院選では、SNSでの情報が選挙戦の行方を左右している(アフロ)

 SNSが普及すれば、政治参加のすそ野は広がる。その一方で弊害もある。有権者の投票行動が感情に流されやすい点である。

 とりわけ2024年の兵庫県知事選挙においては、それに先立つ斎藤元彦知事批判も、その後のSNS上での知事擁護も、どちらも憎悪・敵意を喚起した激しいものであった。サイバー空間は「祭り」の場と化し、その影響は選挙結果を大きく左右した。

「ネット民」は愚かなのではない

 SNSは、理性的な議論よりも攻撃的な感情を活性化させる。くわえて、アルゴリズムによる共鳴バイアスがかかり、エコーチェンバー効果が発生する。

 すなわち、似たような意見ばかりが表示され、それを見て投稿し、それが表示され、それが新たな投稿を生む循環が形成され、結果として意見は極論に収斂されていく。異なる意見が出されれば、ただちに異端審問が始まり、投稿者は公開処刑にかけられる。

 この状況を見れば、「ネット民は愚か」という結論に至りやすい。しかし、実際にはネット上で過激な発言を繰り返す人々は、必ずしも知的水準が低いわけではない。本来は、冷静な判断力を持ち、論理的な思考もできれば、共感性を持った発言もできる人たちである。

 それがサイバー空間のなかにあっては、突如豹変して、キーボード・ウォリアーとして暴走する。サイバー空間こそが、人を「愚かな大衆」として行動させてしまっているのであって、もとから愚かだったわけではない。

 SNSは、人を愚鈍化させる装置である。哲学者のハンナ・アーレントやオルテガ・イ・ガセットが指摘していることだが、「大衆」とは、愚かな人の集団ではなく、人が集団をなすことで愚行へといざなう装置のことである。


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