2025年12月6日(土)

戦災樹木を巡る旅

2025年7月19日

 <特に現在の我々としては、大正12年の関東大震災や昭和20年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用に一層の関心をはらうべきものと思われる>

 水……、水……。どれほどの人が、この水に救われたか。そして、どれほどの人が、水を求めながら尽きたのか。しゃがみこんでいると、柳がふわっと風になびき、我に返った。

「日米の絆」が結ばれた寺で

 参道は階段へと続き、その先には「勅使門」という立派な中門があった。看板には「昭和廿(20)年五月廿五日戦災を受けて焼失」とあり、現在の門は昭和55年に再建されたものだ。

  中門をくぐると、正面に本堂、右手には、空に向かって真っすぐ伸びるイチョウが見えた。梺には大きな石碑と看板が立てられ、周囲は柵で囲まれている。看板には、こうあった。

 「最初のアメリカ公使宿館跡」

 石碑は「ハリス記念碑」だった。アメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスである。1856(安政3)年に来航し、下田の玉泉寺に臨時の領事館を開き、1858(安政5)年に日米修好通商条約を締結。その翌年、弁理公使に任命されて江戸に入り、幕府より貸与されて公使館と住居を移したのが、ここ、善福寺だった。

 善福寺の公式サイトには、「安政6年(1859年)5月27日、タウンゼント・ハリスがアメリカ駐日公使に昇任したことを幕府に伝達すると、当寺は初代アメリカ合衆国公使館としてハリスと館員たちを迎えました。しかし、攘夷を唱えるひとびとの襲撃を受け、庫裡、書院などは焼失。それでも僧たちの機転によって身をもって公使館員を守り日米の友好の絆を深めました」とある。

 開国は決して手放しで受け入れられたものではなかっただろう。それでも友情を育んだ人たちがいたのもまた嘘ではなかったのだろう。ハリスの駐在から約80年後、日米が開戦。日米関係の礎を築いた先人たちは何を思っただろうか。


新着記事

»もっと見る