逆さイチョウに刻まれた生と死
石碑のハリスが向く方に、その木はあった。駅からの道中、目印にした緑の茂みは一塊の大樹だったのだ。カメラのフレームどころか、視界にも収まらない。圧倒的な存在感に、思わず声が漏れた。
東京都教育委員会が設置した「国指定天然記念物 善福寺のイチョウ」と題した看板(上の写真左の黒い看板)には次のように記されている。
「(前略)この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは一〇・四メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は七五〇年以上と推定される。
善福寺は、昭和二〇年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。
根がせり上がって、枝先が下にのびているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある」
柵で四角く囲まれており、石碑と看板の立つ面を正面とすれば、まず対面するのは、どっしりと構えた力強い姿。だが、そこから時計周りに左の側道に入ると、表情は一変する。
大きくえぐられ、黒炭と化した芯。さらに次の角を曲がり、看板の真裏に立つと、死の様相は一層、強まった。もはや自分が木を見ているのか、何を見ているのか、分からなくなるほど、混沌とした世界がそこにあった。
1973年刊行『東京大空襲・戦災誌 第2巻』の「5月25・26日空襲の記録」には、当時麻布にいた人たちの証言も綴られている。その中の一人、桜井正淳さん(戦災時21歳)は実家が麻布の寺だという(麻布山善福寺の参道にあり、米国公使館通訳官ヘンリー・ヒュースケンゆかりの寺と伝わる善光寺と思われる)。同誌を編集した「東京空襲を録する会」を母体とする東京大空襲・戦災資料センターの許可を得て、桜井さんの証言を紹介する。
私の実家は麻布の寺である。幕末時代に、ハリスが最初の領事館とした麻布山善福寺という大きな寺を中心に、九軒の寺が固まって存在していた。その当時私の家にはハリスの秘書のヒュースケンが寝泊りしていた。ヒュースケンは、赤羽橋で浪士に襲われて絶命し、戸板で私の家に運ばれたということである。私が子供の頃には、彼がこよなく愛したという八重桜の切株が残っていたことを覚えている。
昭和一七年の暮れごろから、私達の九軒の寺を軍隊が宿舎として使い出した。当時動員に次ぐ動員で、兵営に収容能力が無くなって来たためであったようだ。麻布六本木の近くの東部第八部隊の、入隊したばかりの初年兵が主であった。
歓呼の声に送られて来たまだあどけなさの残る若者達は、たちまちのうちに班長や古年兵の叱咤とビンタの下で、恐れおののいた毎日を送って行った。そして約一〇日間ぐらいの訓練を受けると、真夜中か夜明けに、軍靴の音も高らかにいずこともなく出発して行った。そしてしばらくすると、また新しい初年兵が入って来た。それは帝都の空襲が激化されるまで続いて行った。
(中略)胸部疾患のため入隊できなかった私も家にいた。私達はできるだけ、兵隊さんの世話をすることが銃後の務めであると考えていた。寺の仕事は二の次であった。(中略)今まで静かだったこの一角は、銃剣のふれ合う音と軍靴の響き、そして怒号とに明け暮れして行った。
昭和十九年末頃から、帝都の空襲は次第に激しくなって行った。 私はその殆どを見、そして体験した。昭和一九年末頃から、帝都の空襲は次第に激しくなって行った。 私はその殆どを見、そして体験した。(中略)高射砲弾を受けたB29が火の玉と化しながら分解して行くのも見た。空襲による火災の恐ろしさは、普通の火災と違って燃え残る何物も無いということも知った。それほど強烈な火力である。
(中略)
五月二五日、その日は風速一〇メートルを越える南風が無気味に吹きまくっていた。前年八月にビルマで戦死した次兄の位牌や遺品が届いたので(中略)ささやかな通夜の勤めをした。(中略)お経も終わり隣の住職が帰られてからしばらくすると空襲のサイレンが鳴り渡った。たちまちあの独特な爆音とともに、数百条のサーチライトの光芒が夜空を走り、高射砲が活躍し始めた。しかし敵機は、それらの届かぬ高空より次から次へと焼夷弾を投下して行った。早くも火の手は至る所に上がり出した。
私達の住んでいる所は山の近くにあり、三〇センチも掘れば水が湧き出すために、防空壕は土を盛り上げて作らねばならなかった。(中略)B29はたえまなく大空を乱舞し、火の海は次第に広がりつつ迫って来た。(中略)そしてちょうど防空壕に入った時、とつじょ激しい落下音とともに焼夷弾が屋根を貫いたのを感じた。私達は反射的に防空壕から飛び出した。

