(中略)
数日間は晴天続きのせいもあって、焼跡にトタンを敷いて寝た。 五月末なのに虫はほとんど出なかった。しかし焼跡に、何の草の芽か、毛せんを敷いたように一面に吹き出た時には、なぜか生きることの有難味をしみじみ感じた。帝都に対する焼夷弾攻撃はこれ以後はなくなり、地方都市へと移って行った。四、五日たって横浜市に対する大空襲があり、天日を蔽う大黒煙を私達はうつろな目で眺めていた。
「東京にもはや高地なし」
東京は区部だけでも60回以上、三多摩や伊豆諸島・小笠原を含めると100回以上の空襲を受けた(『東京大空襲・戦災誌第2巻』および東京大空襲・戦災資料センターより)。米軍による本土の初空襲は1942(昭和17)年4月18日の奇襲攻撃。真珠湾攻撃の翌年だった。
本格的な空襲が始まったのは、約2年半後。1944(昭和19)年11月24日を皮切りに、しばらくは軍事施設や軍需工場を高度から狙う精密爆撃が行われ、多くは日中だった。翌年2月下旬から次第に焼夷弾の使用が増え、B29爆撃機が夜間、超低空で工場地帯や住宅地帯を無差別攻撃するようになった。同年3月10日の下町大空襲では約10万人が死亡した。
それでも攻撃の手は緩められず、標的は都心部、山の手地区へ。この頃には硫黄島基地からのP51戦闘機や、空母からの艦上機が加勢。1945(昭和20)年5月に入るとマリアナ基地のB29群が沖縄作戦援護の任を解かれ、約3,000機が再び本土を覆った。
同年4月から5月にかけての一連の空襲は「山の手空襲」と呼ばれる。特に5月25日午後10時22分から26日未明まで及んだ空襲では、渋谷や赤坂など住宅が残っていた都内各地が徹底的に焼き尽くされた。爆撃の規模や焼失面積は3月10日を上回った。同晩だけでも死者は3000人以上。この空襲を最後に、米軍は「主要目的なし」として東京を大規模爆撃リストから除外。アメリカのジャーナリストは「東京にもはや高地なし」と記したという。
苛烈な火に焼かれたことを物語る木の姿。私はただ嘆息するのが精一杯だった。港区観光協会のエリアガイドには「この木は、終戦後にいったん枯死したかに見え、天然記念物の指定を取り消されましたが、住職らの尽力で異例の再指定となり奇跡的によみがえった事実があります」と紹介されている。
柵の最後の角を曲がるとイチョウの「乳」と呼ばれる下垂部がいくつも見えた。雄の木でも雌の木でも出るらしいが、これが何なのか、植物学者も明確な答えには辿り着いていないようだ。
気づけば境内にお邪魔して1時間近く経っていた。着いた頃は曇天だったが、いつの間にか日が差し、気分も少し晴れた。家路につく園児たちの無邪気な声が境内に響くと、もうそんな時間かと、時計を見た。
「また明日」。当たり前にそう言える日々を、願わずにいられなかった。
1) 麻布山善福寺
2) 東京大空襲とは 東京大空襲・戦災資料センター
3) 編集: 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会『東京大空襲・戦災誌』第2巻 (都民の空襲体験記録集 初空襲から8.15まで),東京空襲を記録する会,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション
4)日本植物生理学会 植物Q&A「銀杏の枝からぶら下がってくるもの」
