2025年12月6日(土)

オトナの教養 週末の一冊

2025年9月21日

飯能戦争の歴史改変

 現在の埼玉県飯能(はんのう)市では、1868(明治元)年3月に飯能戦争があった。

 戊辰(ぼしん)戦争勃発と共に、幕府側の脱走兵集団の一つの振武(しんぶ)隊が、多摩を経て飯能に向かい、そこで官軍と戦闘状態になった。

 戦いはその日のうちに官軍勝利で終わったのだが、問題は、飯能の住民が振武隊に同調して官軍相手に戦ったことだった。

―― にもかかわらず、戦前の飯能の郷土史家、吉田某は住民が被害者だったことを強調し、官軍に対する敵対行為を飯能戦史の中で排除してしまった? しかも、明治天皇の行幸を利用して、記憶に上書きを重ねた?

「そうです。飯能戦争の舞台の羅漢(らかん)山に、83(明治16)年に天皇が行幸し、その後それを利用して天覧山と名称変更され、飯能戦争の傷跡を天皇の聖徳で糊塗しようとしたんですね」

 飯能戦争の歴史改変には、もう一つ要因があった。明治実業界の重鎮、渋沢栄一の従弟(いとこ)、渋沢平九郎が振武隊にいたことから、渋沢が「振武軍碑」建立の発起人になるなど、飯能戦争の記憶形成に何かと関与したのだ。

「渋沢栄一の影響は大きいですね。彼がいなければ平九郎の存在は知られていたかったはず。飯能戦争の記憶は、地元の歴史改変プラス渋沢の積極的関与によって、現在のような“佐幕の記憶の抹消”に落ち着いたと言えます」

 同一性を持つ集団や共同体が創り出す「歴史」の「物語」は、集団が共有する「集合的記憶」となって受け継がれるのである。

日米修好通商条約の締結交渉にあたった佐倉藩主

 千葉県佐倉市の旧佐倉藩、堀田家の場合は、「開国」を巡って、旧藩主の堀田家と旧藩士・領民の間で「集合的記憶」が形成され、独特の明治維新観が地域に生まれた。 幕末に、佐倉藩主の堀田正睦は老中首座として日米修好通商条約の締結交渉にあたった(天皇の勅許は降りず、正睦は失脚。だが、条約は次の井伊直弼大老になって調印)。

 次の藩主、息子の堀田正倫は、明治に入って大地主の華族として旧藩主・領民の起業や災害援助に尽力して旧藩意識を高め、同時に「開国の功労者」としての正睦を顕彰した。

――正倫は、「開国」の栄誉を彦根藩・井伊家に奪われる恐れもあったんでしょうが、正睦の功績を最大限押し出してますね。戊辰戦争以降の日清・日露の戦没者慰霊でも、「正睦の薫陶を受けた旧藩士たちの戦争の功績は正睦の栄誉」とまで述べています。

「故郷である旧藩の功績を国家の勝利と直接結びつけたかったんでしょうね。ただ、そのことによって、正倫は歴史の中に旧藩の居場所を見つけることができたし、旧藩士や領民は、自分たちの生活向上や地域振興のために正睦、正倫をうまく利用できました」

 しかし宮間さんによると、もともと佐幕派を自認していた正倫が明治時代末に亡くなると、佐倉での開国論議は急速に消失した由。

「私は今でも年に何度か佐倉で歴史講義をやっていますが今はもう“堀田正睦が開国の功労者”という声は大きくは聞こえてきませんね。文化遺産として堀田家関連の武具や調度品は人気がありますが」

 本書の帯の文章ではないが、「歴史は書き替えられ続ける」のである。

――これからも、地域の人々のアイデンティティとしての「歴史」「物語」「記憶」は作られて行きますか?

「近代のスタートの明治維新、戦後社会のスタートの終戦についてはあり得るでしょうね」

 戦後については、日本国憲法、講和条約、高度経済成長などが画期になるのだろうか。

――明治200年の2068年には、再々度の明治維新探訪も始まるでしょうか?

「さあ、どうでしょう。現状の政治体制が続けばあり得ますが、明治維新の政治的利用価値は、その頃にはもうずいぶん低下しているのでは?」

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