パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2014年7月18日

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 学校はバリアフリーではなかった。その環境で車椅子の生徒を受け入れることには高いリスクがあったはずだ。しかし、受け入れ、極力他の生徒たちと分け隔てることなく学校生活を送らせたことが、アスリート鈴木の逞しい精神の基盤を育てたと見て良いだろう。

 成長期の子供たちにとって、鈴木のチャレンジの一つひとつが多様性を理解する貴重な機会となったはずだ。

チェアスキーとの出合い

 「学校でスキー教室があるのですが、この子に出来るものはありませんか?」

 鈴木の母が我が子を思い、何か出来るものはないだろうかと技師装具士に聞いたところ、返ってきた答えは「チェアスキーがありますよ」というものだった。

 それが鈴木とチェアスキーとの出合いである。

 当然はじめは遊びだった。

 「最初は転びまくりですよ。リフトに乗れるわけではないので、斜面の途中まで母親が押してくれてそこから滑り降りて行くんですが、みんなと同じことができて嬉しかったです。それではまっていきました」

 「チェアスキーを初めて写真でみたときにスキー板が1本しかないので、これじゃすぐに転んじゃう、あぶない、なんて思ったんです。でも実際に乗ってみると楽しくて」

 「チェアスキーは自転車と同じようにスピードが出ると安定するんです。初心者は怖いからゆっくり滑るんですが、そうするとすぐに転んでしまいます。恐怖心を克服すると安定するんですね。初めてチェアスキーをやったのは小学3年の冬でした」

 その後、福島県障害者スキー協会から「楽しいスキーばかりじゃなく、競技としてレースに出てみないか」と誘われ出場するようになる。

 この頃から長野パラリンピックで金メダルを獲得した志鷹昌浩選手に憧れを抱き、自らも世界の大舞台でメダリストになるんだという夢を持ち始めた。

 それが小学4年時、本稿冒頭の「怖いならやめてしまえ!」のエピソードに繋がって行く。鈴木は衝撃的な言葉を受け「チキショ~」と泣きながら滑り急斜面の恐怖を克服し、小学6年生で出場したジャパン・パラリンピックで4位入賞を果たした。

世界選手権出場への誘いと家族の支え

 進学した中学校ではスキー部に入った。大好きなスキーが仲間といっしょに出来る……。そう思って入部したものの練習は出来ても同じ大会に出ることは叶わなかった。試合で他のメンバーを送り出した後に鈴木一人が残って練習したこともあった。

 「あれは悔しかったですね、仕方がないこととは思いますし、理解もしているんですが、気持ちはみんなと同じレースに出たいんですよ。自分がチェアスキーで健常者にどれだけ通用するか、チャレンジしてみたかったんです。その出られなくて悔しい思いがジャパン・パラリンピックで好成績を残してやろうという気持ちを強くしていったと思います」

 それがバネとなって、鈴木はトップアスリートへの階段を駆け上がっていった。そしてコンスタントに好成績を残せるようになった中学3年、世界への扉が突然開けた。

 それは世界選手権出場の誘いだった。

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