もちろん出たかったが遠征費は高額だ。鈴木には妹が二人いて自分ばかりにお金を掛けられない。いま以上に親に甘えることはできないと中学生ながら家計を理由に一度は断った。
しかし、周囲の関係者は放っておいてはくれなかった。
「今のうちから海外のレースを経験しておいた方がいい」と説得されたり、それを聞いた父親からも「お金のことはおまえが心配することじゃない。ダメなときはダメだと言うから、それまでは頑張りなさい」と背中を押された。
そして日本代表として出場した世界選手権大会の大回転で第3位入賞を果たした。
プレッシャーに負けたトリノ
中学を卒業した鈴木は伝統的にスキー部が強い福島県立猪苗代高校に進学した。
家から学校までは片道およそ8km。雨や雪の日以外は、車椅子で1時間以上掛けて通った。それが鈴木のトレーニングだった。
冬場のスキー練習は、土日しか障害者スキー協会のメンバーといっしょに出来なかったので、平日はナイターで友人と滑った。
「ナイターだと斜面がボコボコになっているのでバランス感覚がとても必要です。それに友達が林の中に行きたがるので、僕もいっしょに入って行くんですが、それでさらにバランス能力が養われたのかなと思います」
「高校生になる頃にはすでにチェアスキーを自在に操れましたので、林の中でも怖くはありませんでした」
スキー部の夏は山の中を走るなど鈴木が出来ないメニューもあったので、並行してパソコン部にも入っていた。小さい頃から父親がパソコンを組み立てているのを見ていて興味があったからだ。だが、スキー以外、高校時代の思い出はあまり記憶に残っていないと言う。多感な年ごろに日本代表として国内、海外等を転戦したため、その記憶だけが鮮明に残り、他の記憶が薄くなっているのだろう。
その最たるものが高校2年生で出場したトリノ・パラリンピックである。
「それ以前のワールドカップではメダル獲得を期待されていたのですが、会場に入ってみると今までに経験したプレッシャーとはまったくレベルが違っていたんです」