「(学校から家まで)歩いてもすぐの距離なので、いつもは歩いていたんですが、どういう理由か、その日は『バスに乗ろうぜ』となったんです。そこでまたなぜか? が続くのですが、僕はバスから降りて、バスの前を通り過ぎようとした時に飛び出してしまったんです。そこで陰になって見えなかったトラックに轢かれてしまいました」
鈴木の人生を変えた3月13日。その日なぜバスに乗ったのか、またなぜバスの前から飛び出してしまったのか、普段ならあり得ない行動に出てしまったことに鈴木自身まったく理解できないと振り返る。
「轢かれた瞬間は憶えていないんですが、そのあと引きずられたことは憶えています。砂埃とタイヤの焦げた臭いがひどくて、視界が開けてきたら睡魔と喉の渇きを覚えました。それが一気にやってきた感じだったと記憶しています」
「もちろん自分では何がどうなっているのかわかっていないんですが、眠い、眠いばかり言っていたみたいです。そこへ近所のおばあちゃんが『寝ちゃだめよ』と僕に声を掛けてくるんです。その時は痛みがなかったというよりも、痛みを越えてしまったんでしょうね。頭はランドセルに守られていたようです」
「救急車に乗って搬送されるときも意識はありました。いっしょに乗った母親に喉が渇いたと言い続けていたようです」
病院に着いてすぐに麻酔を打たれた。それ以後の記憶はない。
鈴木が目覚めたとき、すでに片足は切断されていた。その後、「こちらの足は動くからね」と言われていたもう片方の足も切断せざるを得ない状態になって両足を失った。
「はじめは混乱しましたが、ショックを受けた記憶はありません。ただ、小さな子どもに『あの人足がないよ』と言われたり、周りから特別視されることが耐えられなかった。仕方のないことですが、自分だけがそれを聞くならまだしも、親に聞かせるほど辛いことはなかったですよ」
マラソン、サッカー、ドッジボールもみんなと一緒に
校舎が古くバリアフリーではないという理由から、教育委員会からは養護学校への転校を勧められた。しかし、友人たちの「早く戻って来いよ」という声や、担任や校長の働きかけによって復学がかなった。
トイレを修理したり、各階に車椅子を設置したり、必要に応じて同級生たちの協力を得るなどしながら学校生活に戻ったが、学校としては「障害者として特別扱いはしません」という姿勢で鈴木や両親に接していた。もちろんそれは鈴木にとっても両親にとっても、望ましいことだった。
「他の階に車椅子があっても、階を移動するときは小学生ながらみんなで自分が座っている車椅子をもってくれたんです。先生たちも『障害者として扱わない』ということで、同級生と同じことをやらされました。そのおかげでいろいろな経験が出来たんです。マラソンは砂利道の所だけはルートを変えてもらいましたが、サッカーは手を使っていいというルールでみんなといっしょに出来ました。ドッジボールもみんなと同じコートに立ってやれたんですが、友達も「特別は扱いしないよ~」なので真っ先に狙ってくるんですよ(笑)。体力測定は反復横跳びや立ち幅跳びも車椅子から降りてやらされました。辛いこともありましたが特別扱いされなかったことが嬉しかったですし、みんなといっしょにやれたという経験が、その後の僕に生きてくるんです。ありがたいことだと思っています」