「瓦房店帮」の政治的拠りどころ
「瓦房店帮」の元々の大ボス、于永波は江沢民の子分である。1985年から1989年11月の間、南京軍区政治部主任を勤めた。この間、江沢民は上海市市長や上海市党委員会副書記、上海警備区第一政治委員(上海市を管轄する軍管区の政治担当司令官、自治体首長として兼任:筆者)を勤めた。形式上、于永波は軍内で江沢民の上司に当たる地位だったが、1987年に党中央の政治局員に昇格していた江を部下扱いせず礼を尽くして大事にしたため虚栄心の強い江は于に好感を持った。
江外遊時に于が同行し、二人は意気投合し、江の信頼を獲得した。1989年11月に江が中央軍委主席に就任すると軍内で孤立無援だったため、于を2階級飛びの総政治部副主任(総参謀部、総後勤部とともに3つの軍中枢幕僚部門の1つ:筆者)に昇格させた。
1990年に楊尚昆(直前まで主席の鄧小平の下で中央軍委副主席:筆者)、楊白冰(中央軍委秘書長、事務局長のような役割、現在はこの職は廃止:筆者)兄弟は軍統制を強め、楊尚昆は、兵種や軍区を超えた政治将校の人事異動を行った。政治将校の主な役割は軍内監視であり、幹部の異動、任免を通じて軍のコントロールを狙ったのだ。
しかし、このとき于永波はただちに江沢民に告げ口をし、楊兄弟の「陰謀」をばらした。1992年春に鄧小平は中国南部を視察し、そこで発表した講話(改革開放を加速させようという「南巡講話」として有名:筆者)の中できたる党の14回大会で指導者入れ替えを示唆したため江は慌てた。曽慶紅(江沢民の秘書的存在:筆者)は楊尚昆と江沢民を離反させてこそ起死回生を図れると進言した。
この時、楊白冰は昇進させる百人の将軍たちの名簿を提起したが、その大部分は「楊家の将(楊兄弟)」腹心だった。中央軍委第一副主席の楊尚昆は名簿を許可し、江沢民に許可を求めた。江は曽慶紅と相談して対応を考えた。曽は取りあえず棚上げして于永波と相談する事を提案した。于は、名簿は江沢民からの権力を奪取が目的だと指摘した。曽は、楊兄弟が「楊家の将」人脈を植え付け鄧小平の軍人脈にとって替えようとしていると考えていた。江沢民は于永波を連れ、鄧小平と会って告げ口したため、楊兄弟は鄧小平の信頼を失った。
「楊家の将」を倒した(楊兄弟は1992年10月に失脚し一線から退いた:筆者)功を買われ、1992年に江沢民は于永波を中央軍委委員に昇格させ、総政治部主任に就任させた。こうして于は「瓦房店帮」を形成し始めた。1992年に于は瓦房店同郷の徐才厚を総政治部主任助理(総政治部主任の補佐官:筆者)兼解放軍報社社長に据えた。